出自の考察
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/31 07:59 UTC 版)
阿只抜都とは高麗軍が名付けた呼び名であり、韓国語で「子供(アギ)」、モンゴル語で「勇者(バートル)」という説が有力である。九州の武士、赤星(あかぼし)氏や相知比(あじひ)氏の名が訛って伝わったという説もある。その出自には九州松浦党の武士、モンゴル系済州島人、高麗人、もしくは琉球人など各説ある。高麗が元朝に支配されてから、済州島は有数の馬産地となり、モンゴル系の定住者もいた。九州の武士団といえども千頭の馬を揃えることは難しく、阿只抜都の出自は別として、済州島民の協力があったであろうという考察がある。阿只(アズィ)や抜都(バドゥ)は蒙古語の音写に使われる(阿只児海など)。1368年、元の滅亡で力が弱まった済州島のモンゴル系住民の蜂起の可能性も否定できない。 高麗史には「銅面をつけて射る隙もなかった」という描写があるが、この時期の日本では、顎と頬を覆う「頬当」という防具はあっても、顔面全体を覆う「面頬」は戦国時代(16世紀後半)まで現れない(「高麗史」は1451年、「高麗史節要」は1452年の成立である)。中国・朝鮮・モンゴルの甲冑にも顔面防具は存在しない。この点も出自に関する謎の一つである。なお、文中では「帯銅面具」とあり、同じ表現がされた人物としては北宋の武将狄青の故事がある。 他の異説としては、藤井尚治が1937年発行の著書『国史異論奇説新学説考』の中で、阿只抜都は「アキフト」と読み、商人という日本語を意味する、という説を唱えている。
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