旧居
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 05:34 UTC 版)
野口雨情旧居は、1930年(昭和5年)頃に農地開拓者の住宅として建てられた、木造平屋建ての民家である。つるの父が当時、鹿沼町(現・鹿沼市)に居住しており、雨情一家のためにこの家を探し出し、つるが現地を確認してから移住したとされる。一家は雨情・つる夫妻とその子供6人の計8人家族であった。 住宅内部は4つの居室と台所、浴室から成る。間口6間(≒10.9 m)×奥行4間(≒7.3 m)で建坪は24坪(≒79.3 m2)、木造平屋建、入母屋造桟瓦葺、外壁は下見板張りである。有名人の家としては質素な造りであり、雨情の人柄を偲ぶことができる。雨情はこの旧居で1944年(昭和19年)1月から1945年(昭和20年)1月27日までの1年間を過ごし、ここで亡くなったので、雨情終焉の地となった。金田一春彦は戦後に旧居を訪ね、雨情が寝ていたところに寝転がり、「ここで雨情さんは寝ていたのですね」と言って感激したという。 家には水田3反(≒29.7 a)と畑1町4反(≒138.8 a)が付属し、畑にはカキの木数百本とイチゴがあり、一家で自給生活を送るのに申し分のない農地であった。移住初期には雨情自ら果樹栽培や養鶏をしていたものの、体調が悪化して次第に畑仕事は使用人に任せるようになった。戦後は家計を支えるためにつるが農作業に従事し、イチゴ畑を芋畑に変えた。 家の裏手には鹿沼街道(現・栃木県道4号宇都宮鹿沼線)が通っていたが、当時は通行人がほとんどない静かな通りであった。家と街道の間には門と樫の木の垣根があり、雨情は食べた梅干しの種を窓から樫の木の根元に向かって放り投げていた。これは雨情の長男で、雨情研究家でもある野口存彌の証言であるが、存彌にもなぜ雨情が樫の木の根元に梅干しの種を投げていたのかは分からないという。
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