『続日本紀』における記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/15 14:32 UTC 版)
『続日本紀』宝亀11年(780年)6月28日条に、伊勢国の言上として、「16日、己酉の巳時(午前10時頃)に鈴鹿関の内城で太鼓が一度鳴った」と記され、同年10月3日条では、「左右の兵庫の鼓が鳴った。その後、矢の飛ぶような音が聞こえ、その響きは内の兵庫にまで達した」と記述されている。 天応元年(781年)3月26日条には、美作国の言上として、「12日未の時の三点(午後3時)に苫田郡の兵器庫が音を立てて震動した。四点(3時半)にも同じように音を立てて震動があった。その響きは大きな雷が次第に轟くようであった」。また同条、伊勢国の言上として、「16日の牛の時(正午前後)に鈴鹿関の西側中央の城門の太鼓が自然に三度鳴った」。 4月1日条、「左右兵庫の兵器が自然に鳴った。その音は大石を地面に投げつけるようであった」。 5月16日条にも、伊勢国の言上として、「鈴鹿関の城門と守屋4棟が14日から15日まで、自然に屋鳴りして止みませんでした。その音は木で建物を衝くような音でした」と細かに報告されている。『日本書紀』や『吾妻鏡』が器物なのに対し、建物の家鳴りであり、古代から見られる。 12月26日条では、「兵庫司の南院にある東の庫がなった」と記される。
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