一条冬良とは? わかりやすく解説

いちじょう‐ふゆら〔イチデウ‐〕【一条冬良】

読み方:いちじょうふゆら

[1464〜1514]室町後期公家学者。兼良(かねら)の子関白太政大臣宗祇(そうぎ)とともに勅撰の「新撰玖波(つくば)集」を編集いちじょうふゆよし


一条冬良


一条冬良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/22 15:21 UTC 版)

 
一条冬良
「關白(花押)」
『東福寺文書』より
時代 室町時代 - 戦国時代前期
生誕 寛正5年6月25日1464年7月29日
死没 永正11年3月27日1514年4月21日
別名 号:後妙華寺
墓所 京都市東山区本町東福寺
官位 従一位関白内覧太政大臣
主君 後土御門天皇後柏原天皇
氏族 一条家
父母 父:一条兼良、母:町顕郷娘・南御方
養父:一条教房
兄弟 教房、尊秀、教賢、尋尊、厳宝、秀高、良鎮、桓澄、慈養、了高、光智、恵助、秀賢、経子、尊好、宗方、冬良、政尊、南御所、高千穂有俊室、他早世等含め計26人
二条政嗣
一条房通
養子:房通
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一条 冬良(いちじょう ふゆよし/ふゆら)は、室町時代から戦国時代初期にかけての公卿太政大臣一条兼良の二十三男。官位従一位、関白、太政大臣。一条家10代当主。号は後妙華寺。

経歴

文明4年(1472年応仁の乱のため、避難していた奈良で元服。正五位下に叙される。兄・教房土佐国にあり、また、教房の嫡男・政房摂津国福原で横死したため、教房の養嗣子となり家督を継ぐ。

文明9年(1477年)兼良と共に帰京する。長享2年(1488年)関白・内大臣となり、延徳4年(1492年)1月6日、従一位となる。明応2年(1493年)には太政大臣に任ぜられる。同年関白を辞任したが明応6年(1497年)再度関白職に復帰した。跡継ぎが居なかったため、兄・教房の孫の房通を婿養子にして家を継がせた。永正11年(1514年)3月27日薨去。享年51。

父・兼良の影響を受け、学問に熱心で古今和歌集の講義を行ったり、新撰菟玖波集の編纂に尽力した。

系譜




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