橘常主とは? わかりやすく解説

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橘常主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/16 01:38 UTC 版)

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橘常主
時代 平安時代初期
生誕 延暦6年(787年
死没 天長3年6月2日826年7月10日
別名 当主
官位 従四位下参議
主君 嵯峨天皇淳和天皇
氏族 橘氏
父母 父:嶋田麻呂、母:淡海三船
兄弟 真材、長谷麻呂、有主、千株、常主
常子春澄善縄室、藤原貞本
安吉雄三夏、三冬
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橘 常主(たちばな の つねぬし)は、平安時代初期の貴族。名は当主(あてぬし)とも記される。参議橘奈良麻呂の孫。兵部大輔橘島田麻呂の六男[1]官位従四位下参議

経歴

大学少允式部丞蔵人を経て、弘仁8年(817年従五位下少納言に叙任される。

弘仁9年(818年権左少弁、弘仁10年(819年蔵人頭兼左中弁に任ぜられるなど、嵯峨天皇に側近として仕える一方、近衛少将式部大輔修理大夫中務大輔なども兼ねる。また、弘仁12年(821年)正月に正五位下、同年4月には従四位下と嵯峨朝末に急速に昇進し、弘仁13年(822年橘氏としては祖父・橘奈良麻呂以来73年ぶりに参議に任ぜられ公卿に列した。この間、嵯峨天皇の命令により藤原冬嗣らと共に『弘仁格式』の編纂に参画している[2]

淳和朝では、議政官として弾正大弼下野守を兼ねる。天長元年(824年)守・介の任期を4年から6年に延長したほか、諸公卿の提言を入れて国司に関する新たな制度が定められているが、このうち以下については常主の提言が採用されている[3]

天長3年(826年)6月2日卒去享年40。最終官位は参議従四位下行弾正大弼兼下野守。を積みその上に座して焼死したという[7]

官歴

注記のないものは『公卿補任』による。

系譜

脚注

  1. ^ または七男(『公卿補任』)。
  2. ^ 『日本後紀』天長7年10月7日条
  3. ^ 福井俊彦『交替式の研究』吉川弘文館、1978年
  4. ^ 狩野本『類聚三代格』巻4天長9年8月20日官符
  5. ^ 『貞観交替式』22
  6. ^ 『貞観交替式』46
  7. ^ a b c 『公卿補任』
  8. ^ 『日本紀略』
  9. ^ 『日本逸史』
  10. ^ a b 『尊卑分脈』
  11. ^ 宝賀[1986: 91]

参考文献

  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第四篇』吉川弘文館、1958年
  • 市川久編『近衛府補任 第一』続群書類従完成会、1992年
  • 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年



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