藤原顕輔とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 文化 > 和歌 > 歌人 > 藤原顕輔の意味・解説 

ふじわら‐の‐あきすけ〔ふぢはら‐〕【藤原顕輔】

読み方:ふじわらのあきすけ

1090〜1155]平安後期歌人六条家の祖といわれる顕季(あきすえ)の子で、清輔の父。六条家継ぎ崇徳院院宣により「詞花集」を撰進家集に「左京大夫顕輔卿集」がある。


藤原顕輔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/03 02:30 UTC 版)

 
藤原 顕輔
藤原顕輔像
時代 平安時代後期
生誕 寛治4年(1090年
死没 久寿2年5月7日1155年6月8日
別名 六条
官位 正三位左京大夫
主君 鳥羽天皇崇徳天皇近衛天皇
氏族 藤原北家魚名流
父母 父:藤原顕季、母:藤原経平の娘
兄弟 長実家保顕輔藤原宗通室、
高階能遠の娘、藤原盛輔の娘、家女房
顕賢、清輔、頼輔、重家季経、顕成、親輔、長覚、近衛基実室、九条兼実
猶子:顕昭
テンプレートを表示

藤原 顕輔(ふじわら の あきすけ)は、平安時代後期の公家歌人修理大夫藤原顕季の三男。官位正三位左京大夫六条と号す。小倉百人一首では左京大夫顕輔六条藤家2代。

経歴

康和2年(1100年)1月に白河上皇院判官代に任ぜられて以降、院の近臣として昇進した。加賀守中務権大輔を経て、元永元年(1118年)12月正四位下に昇る。大治2年(1127年)1月、讒言により白河院の勘気を蒙って昇殿を止められたが、白河院崩御の翌年(1130年関白藤原忠通の娘・聖子崇徳天皇中宮に冊立されると、中宮亮となり官界に復帰。保延3年(1137年)10月従三位に叙せられて公卿に列し、同5年(1139年)1月左京大夫任じられ久安4年(1148年)7月正三位に至った。久寿2年(1155年5月7日薨去。享年66。

周辺に優れた歌人が多く、永久4年(1116年)の鳥羽殿北面歌合・六条宰相家歌合や久安6年(1150年)の「久安百首」など、多数の歌会歌合で活躍し、父から六条藤家の象徴である人麻呂影供(ひとまろえいぐ)を受け継いだ。天養元年(1144年)6月に崇徳上皇から勅撰集撰進の命を受けて、仁平元年(1151年)に『詞花和歌集』を完成させ、奏覧に供した。

金葉和歌集』(14首)以下の勅撰和歌集に84首が入集しており[1]、家集には『左京大夫顕輔卿集(顕輔集)』がある。

系譜

脚注

  1. ^ 『勅撰作者部類』
  2. ^ 藤原北家小野宮流出身

外部リンク




藤原顕輔と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「藤原顕輔」の関連用語

藤原顕輔のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



藤原顕輔のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの藤原顕輔 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS