中大兄皇子の称制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 07:42 UTC 版)
斉明天皇は新羅出兵準備中の661年に崩御したが、中大兄皇子は皇太子のまま即位せずに政務を執行した。斉明天皇の崩御後も即位を先延ばしにしたが、この間は『日本書紀』や『万葉集』によると「中皇命(なかつすめらみこと)」と呼ばれた人物がいたらしく、これは間人皇女(孝徳天皇の皇后)のこととする説が有力である。先帝の后や母后ではなく皇太子の方が実権を握っている点で、中国の称制とは異なるが、まず母后(斉明天皇)のちに先帝の后(孝徳天皇の皇后・間人皇女)を名目上の上位者として立てていたために形式上「称制」という名称が選ばれたのであろう。いずれにせよ、中大兄皇子は667年に近江大津宮に遷都し、668年旧正月1月3日にやっと正式に即位した(天智天皇)(一説に、中大兄皇子が同母妹の間人皇女と不倫関係を持っていた為に乙巳の変から15年以上経過してもなお即位できなかったとの説や、反対に間人皇女(=中皇命)は中継ぎの大王として即位していたとの説もある。中大兄皇子が(結果的に)晩年にやっと即位した理由については他にも様々な説がある)。
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