中外商業新報社に入社
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1933年5月、朝日新聞社の入社試験に落ちたため、日経の前身となる中外商業新報社に入社。中外は、部数十万にも満たない、業界紙にちょっと毛の生えた程度の二流新聞としかみられていなかったが、その年は長引く不況のあおりで、中外の競争率は軽く百倍は超えていた。記者として採用されたのはたった二人だったが、そのうちの一人に、幸運にも圓城寺は選ばれた。 入社七年目の1940年、編集局長の小汀利得から「きみはもう記事は書かなくて良い」と宣告され、会社の金で一年間の海外遊学に旅立った。アメリカからヨーロッパを巡るが、胃に中の蛙ではダメで、もっと世界に目をひらき、知識を貪欲に吸収していかねばならないと痛感する。帰国後、三十四歳で経済部長に抜擢されるが、半年あまりで日本は太平洋戦争に突入し、言論統制で新聞社として手足をもがれたも同然の戦時中は、圓城寺にしても情報局の検閲をパスするようなあたりさわりのない紙面でお茶を濁すしかなかった。 敗戦と同時に全国の新聞社では、世論の先頭に立って国民を戦争にかりたてていった新聞社幹部の責任を追及する声が社内からわきおこった。朝日、読売では1945年12月までにオーナーを始め経営陣、編集局長、編集主幹らがその地位を去り、毎日でも会長、社長を筆頭に幹部の大々的な入れ替えが行われた。朝毎読三紙の社内刷新運動はとうぜん日経にも波及し、11月、編集局の部長を中心とした従業員代表が社長の小汀利得に対して、幹部交代を含め日経として戦争責任を明確化するよう迫った。これを受け、会社側は12月5日、会長の村山幸平ら三人の役員と監査役を退任させると発表。翌年3月には戦時中から編集局長だった小田嶋定吉がその職を解かれ、局次長だった圓城寺が弱冠三十八歳にして第五代編集局長に就任した。
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