中外商業新報社に入社とは? わかりやすく解説

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中外商業新報社に入社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 03:37 UTC 版)

圓城寺次郎」の記事における「中外商業新報社に入社」の解説

1933年5月朝日新聞社入社試験落ちたため、日経前身となる中外商業新報社に入社。中外は、部数十万にも満たない業界紙にちょっと毛の生えた程度二流新聞としかみられていなかったが、その年は長引く不況のあおりで、中外競争率軽く百倍超えていた。記者として採用されたのはたった二人だったが、そのうち一人に、幸運に圓城寺選ばれた。 入社七年目1940年編集局長小汀利得から「きみはもう記事は書かなくて良い」と宣告され会社の金で一年間海外遊学旅立ったアメリカからヨーロッパを巡るが、胃に中のではダメで、もっと世界に目をひらき、知識貪欲に吸収していかねばならない痛感する帰国後、三十四歳で経済部長に抜擢されるが、半年あまりで日本太平洋戦争突入し言論統制新聞社として手足をもがれたも同然戦時中は、圓城寺にしても情報局検閲パスするようなあたりさわりのない紙面お茶濁すしかなかった。 敗戦同時に全国新聞社では、世論先頭立って国民戦争かりたてていった新聞社幹部責任追及する声が社内からわきおこった朝日読売では1945年12月までにオーナー始め経営陣編集局長編集主幹らがその地位去り毎日でも会長社長筆頭幹部大々的入れ替えが行われた。朝毎読三紙の社内刷新運動はとうぜん日経にも波及し11月編集局部長中心とした従業員代表が社長小汀利得に対して幹部交代含め日経として戦争責任明確化するよう迫った。これを受け、会社側は12月5日会長村山幸平三人役員監査役退任させると発表翌年3月には戦時中から編集局長だった小田嶋定吉がその職を解かれ、局次長だった圓城寺弱冠三十八歳にして第五編集局長就任した

※この「中外商業新報社に入社」の解説は、「圓城寺次郎」の解説の一部です。
「中外商業新報社に入社」を含む「圓城寺次郎」の記事については、「圓城寺次郎」の概要を参照ください。

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