飛鳥京跡苑池
名称: | 飛鳥京跡苑池 |
ふりがな: | あすかきょうあとえんち |
種別: | 史跡 |
種別2: | 名勝 |
都道府県: | 奈良県 |
市区町村: | 高市郡明日香村 |
管理団体: | |
指定年月日: | 2003.08.27(平成15.08.27) |
指定基準: | 史2,史8,名1 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | 飛鳥京跡苑池は飛鳥川右岸の河岸段丘上に立地し、史跡伝飛鳥板蓋宮跡の西北に接する。大正5年(1916)には、この付近から「出水の酒船石」と呼ばれる石造物が2基出土している。その出土地点付近から北方にかけて発掘調査を実施した結果、幅約5mの陸橋状の渡堤をはさみ、周囲に石積みの護岸をめぐらせた南北2つの池と、北に延びる排水路からなる飛鳥時代の苑池遺構を検出した。 南池は東西、南北ともに60mほどの規模で、深さは約1.5mである。北に開く扇形を呈し、底には平らな石を敷き並べ、岸周辺は傾斜をもち、礫敷きとなる。池の中央には6m×11mの範囲で島状の石積みが認められ、その北には東西長32m、南北幅6mほどで、張り出しをもつ中島がある。池内では柱根や柱抜取穴を検出し、岸から張り出す縁台状の施設があったとみられる。池の南側からは 大正5年発見石造物の抜取穴のほか、新たに2基の石造物を検出した。1基は池南岸近くにあり、内部を刳り抜いて槽状にしたもので、もう1基は西北方約5mの池内にあり、上部に横方向の孔を貫通させる。これは池に噴水をする施設と考えられる。北池は、南北約55m、東西約35mの規模と推定され、底は南池より約2m深く、石をやや乱雑に敷き詰める。渡堤では、南池と北池間の通水を図るための木樋を2箇所で検出した。北池からは、さらに北に抜ける幅約6mの石積みの水路があり、これは約100m北で西折し、飛鳥川へと連なるものと推定される。なお、南池の東南方では東南隅を画する掘立柱塀を確認しており、苑池の範囲は南北約280m、東西約100mに及ぶ。年代は、出土遺物から7世紀中葉に造営され、7世紀後葉に改修を加えた後、10世紀に至るまで連綿と維持・管理されていたと考えられる。 出土遺物には土器、瓦、木製品、斎串、木簡等がある。木簡の内容は、薬に関するもの、付札、文書木簡等多彩で、年代も7世紀中頃から8世紀初頭まで確認できることから、周辺から長期にわたって投棄されたものと考えられる。 飛鳥京跡苑池の南北2つの池は、それぞれ形態や構造、意匠を異にしている。南池が少なくとも3つの石造物を有する断面が皿状になる石貼りの浅い池で、中島や島状の石積みをもつなど観賞用の池という色彩が強いのに対し、北池は底が深く、底面も平らであるなど実用的な性格が強いものとなっている。特に南池は本格的に庭園の全体がわかる最古のもので、鑑賞施設なども検出しており、貴重なものである。飛鳥京跡苑池は、飛鳥地域の苑池や方形池の中でも最も規模が大きく、構造も複雑である。位置的にみても、すぐ東側に位置する歴代の宮殿と密接に結びついた施設であると考えられる。このように、飛鳥京跡苑池は飛鳥時代の政治、文化を知る上で極めて重要な遺跡であるとともに、我が国における庭園の変遷を知る上でも重要である。よって、史跡・名勝に指定し保護を図ろうとするものである。 |
飛鳥京跡苑池
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 11:28 UTC 版)
飛鳥京跡苑池は、「伝飛鳥板蓋宮跡」の北西に隣接した庭園遺構であり、1999年(平成10年)の発掘調査で確認された。外国使節などを歓迎する饗宴の場として利用されたとみられている。藤原京以前に宮都に付随した苑池が営まれていたことがうかがわれる重要な遺構である。2003年(平成15年)に国の史跡・名勝に指定された。2015年9月には、苑池に入るための門跡が初めて見つかったと橿原考古学研究所が発表した。斉明朝(7世紀中葉)に造営され、天武朝(7世紀後半)に整備され、10世紀に至るまで機能し、鎌倉時代までには完全に埋没していたと推測されている。南池の調査で飛鳥京跡苑池は、南池、北池、と間の渡り堤、水路、掘っ立て柱建物・塀が見つかり、日本初の本格的な宮廷庭園とされていた。 2019年に小さな方の北池発掘調査が行われ、北池北東角で酒船石遺跡に似た天皇水祭祀遺跡が発掘された。これで池全体の性格が大きく変わり、現在研究中である。千田稔はこの苑池は宮殿の付属の庭園と見られていたが、湧き水があったからこそ苑池を造り、近くに宮殿を建てたとも考えられる、と仮説を立ててている。大きさ40-70センチメートルの石で、南北約13メートル、東西約8.5メートルの約100平方メートルの範囲を石敷きとしており、砂利敷きの周辺部とは異なる形にしている。2つ目の升や西側の溝付近だけ、約40センチメートルのひと回り大きな石を使用していた。階段状の護岸もありこれも酒船石遺跡と同様で、当初は8段以上あったと推定されている。重要な湧水施設は、幅約4メートル、奥行き約3.5メートルの石積み区画の中に正方形の石組みがあり今も水が湧いている。この正面は板でせき止めその上部を凹状に加工し、そこから上澄みだけが流れ出る仕組みとなっていた。水は底に粘土を貼った長さ約2.1メートルの石組み溝を通って、そこに天理砂岩の切り石を敷き詰めた約1メートル四方の2つ目の升に入ってから、長さ約7メートルの底が天理砂岩の溝を流れ、さらに西の排水路に合流し、北池には注ぎ込まない。 2013年、「川原寺坏莫取若取事有者**相而和豆良皮牟毛乃叙又毋言久皮野*」(*の箇所は判読不能)などと漢字と万葉仮名で刻まれた土器が見つかった(発表と一般公開は2014年)。読み下すと「川原寺の坏、取ること莫(なか)れ、若(も)し取る事有らば、**相す、而して和豆良皮牟毛乃(煩(わづら)ひむもの)、叙して又(ま)た久しき皮野*(ひや*)を言ふこと毋(な)し」となる。文言は土器の外側に刻まれており、マスメディアによれば、意味は「川原寺の坏(つき)であるから取るな。もし取れば災いが起こる」であるとしている。
※この「飛鳥京跡苑池」の解説は、「飛鳥京跡」の解説の一部です。
「飛鳥京跡苑池」を含む「飛鳥京跡」の記事については、「飛鳥京跡」の概要を参照ください。
- 飛鳥京跡苑池のページへのリンク