第1次海部郡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 01:42 UTC 版)
平安時代以前の郡域であった美濃国海西郡の変遷については「海西郡 (岐阜県)」を参照 701年の大宝律令制定以前から、評として「海評(あまのこおり)」が置かれていた。飛鳥京跡苑池遺構から出土した678年(天武天皇7年)頃のものとされる木簡には「戊寅年十二月尾張海評津嶋五十戸・韓人部田根舂 赤米斗加支各田部金」と記載されており、この頃すでに「津嶋」の郷に1000人ほどが居住していたことが分かる。701年の大宝律令の制定により評が郡となり「海郡」となった。713年(和銅6年)以降、好字二字令により「海部郡」と記されるようになった。奈良時代の古文書である正倉院文書や927年成立の延喜式にも海部郡(あまのこおり)との記載がみられる。延喜式によると域内に「馬津駅(うまづえき)」という駅家が存在したとされ、古代東海道のルートとなっていたことがわかる。 「佐織町史通史編」によれば平安時代後期すなわち11世紀頃に東西に分割されて海東郡と海西郡になり、海東郡と海西郡の境界は善太川の旧河道と推定されている。
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