さいし‐いせき〔‐ヰセキ〕【祭×祀遺跡】
祭祀遺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 23:05 UTC 版)
「竹屋神社 (南さつま市)」の記事における「祭祀遺跡」の解説
当神社の社殿の裏手の小丘には、彦火々出見命の御陵とも伝わる磐境(ストーンサークル、環状列石)がある。昭和5年(1930年)当時考古学界の権威者であった鳥居竜蔵博士による調査で、この磐境の中にある亀形の大岩石はドルメン(支石墓)の傘石であり古代人の信仰の対象であった祭祀遺跡で、最も古いものであったと発表されている。 このドルメン(支石墓)の周囲にめぐらされている磐境(ストーンサークル、環状列石)の列石のさらに外側には、この磐境に使用されている石と同じような石が、この磐境の周囲を大まかに囲むように地面に埋設されたものが数個点在しているので、あるいは二重構造の磐境(ストーンサークル、環状列石)、いわゆる二重環状列石である可能性もあるのではないかと思われる。 またもう1つの笠狭宮跡の伝承地である南さつま市笠沙町赤生木の野間岳の山腹にある宮ノ山遺跡にも、ドルメン(支石墓)が三基あり、ケルン(積石塚)も存在する。 このドルメン(支石墓)と同じような祭祀遺跡は、鹿児島県曽於市末吉町二之方の住吉神社が鎮座する住吉山の山頂にもあって姥石と呼ばれている。この姥石も、当神社の磐境(ストーンサークル、環状列石)と同じく昭和5年(1930年)に鳥居竜蔵博士によって発掘されたもので、二基ありそのうち一基は頭部の石が失われていて土台の石だけが残っている。この姥石は日向と大隈の境の石であるともいわれている。鳥居竜蔵博士はこれを立石(メンヒル)で、古代の宗教的な殿堂で御神体の安置所であったと考えられるといわれ、八幡一郎博士はドルメン(支石墓)の一種であろうといわれた。また鳥居竜蔵博士は、付近に磐境(ストーンサークル、環状列石)の形跡があるといわれたようであるが、現在はよくわからないようである。 このドルメン(支石墓)は、「墓」であるものと、何らかを記念する一種の「標識」であるものに分けられるようである。このような祭祀遺跡は有史以前のもので、その場所に神社が創建される遥か以前から存在していたものである。つまりそのような有史以前に起源をもつような祭祀遺跡が残っている神社がある土地は、神社が建立されたことで聖地になったのではなく、元々聖地であった場所に神社が建てられたことを示しており、それは当神社にも当てはまると思われる。こういった祭祀遺跡が残る神社は日本各地にあり、それが御神体としての石であったり、その石に様々な名称が付けられ色々な伝承とともに現在まで伝えられ残されている。 また磐境(ストーンサークル、環状列石)は、そこを神聖清浄な場所として保存するための境界石を人工的に組んで結界を形成して「神域」を示している祭祀遺跡であり、神社の原始形態とされている。
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「祭祀遺跡」の例文・使い方・用例・文例
- 神を祭った祭祀遺跡
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