祭神と境内社
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「倭文神社 (与謝野町)」の記事における「祭神と境内社」の解説
主祭神は天羽槌雄神で、建葉槌命とも称される。倭文氏の祖先であり、倭文大神と称する氏子もある。天照大神が天岩屋に隠れた際に、高皇産霊神の命を受けて文布を織った神で、機織りの祖神とされる。また武勇の神でもあるとして、ともに武の神である八幡神を信仰対象とする氏子もある。 境内社には、府道からいちばん手前の大鳥居の右手に粟嶋神社があり、拝殿に至る境内中ほどの右手に稲荷神社、左手に若宮社がある。 粟嶋社 稲荷社 若宮社
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祭神と境内社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 00:41 UTC 版)
奥澤神社の祭神は、誉田別命(応神天皇)と倉稲魂之命の2柱である。歴史の節で説明したとおりもともとの祭神は誉田別命で、倉稲魂之命は旧奥沢本村の鎮守である子安稲荷神社の祭神であった。 神社の境内社としては、本殿及び八幡小学校発祥地碑の裏手付近に弁才天社が祀られている。この弁才天社は「福寿弁天」と呼ばれていて、かつて奥沢駅の南方100メートルほどのところにあった湧水池に鎮座していたものを、1950年(昭和25年)に移したものである。 この弁才天社の前にある石柱には、1737年(元文2年)11月11日の日付と和田和右衛門およびその妻せんの名が刻まれている。神体の石祠裏面には、1821年(文政4年)に奥沢本村の領主および村人によって神体が再建された旨の記述があるという。1933年(昭和8年)には、それまでの社が老朽化したため新たに造り直した。当時は「サンの日」が弁才天の縁日であり、毎月3日・13日・23日の各日に近隣の商店街の人たちがオスワリ(餅)、神酒、果物などを供えていて、出店が並ぶほどの賑わいを見せていた。特に4月13日の縁日には、奥澤神社から宮司が修祓に来ていた。 弁才天社の旧地である湧水池は「奥沢弁天池」の名で呼ばれ、池の主の白蛇が奥沢の田畑に水の恵みを与えていたと伝わる。ただし池の跡地は商店街となっていて、その名残を確認することはできない。
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