エアフルトの分割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 06:52 UTC 版)
「ザクセン=ヴァイマル」の記事における「エアフルトの分割」の解説
ヨハン・フリードリヒ2世の後をヴァイマルにいた弟のヨハン・ヴィルヘルムが継いだが、彼はフランス王シャルル9世と同盟して皇帝の不興を買った。1572年、マクシミリアン2世はエアフルトの分割(ドイツ語版)を実施、エルネスティン家領をヨハン・ヴィルヘルムといまだに囚われていたヨハン・フリードリヒ2世の2人の息子の間で分割した。ヨハン・ヴィルヘルムはザクセン=ヴァイマル公位を保持、ヨハン・フリードリヒ2世の息子たちはそれぞれ南部のコーブルク周辺と西部のアイゼナハ周辺を獲得した。 この分割はエルネスティン家領で行われた数多くの分割のうち、最初のものである。その後の3世紀間、エルネスティン家諸公に息子が2人以上いるときは領地がさらに細かく分割され、直系の継承者がいないときは再統合されるが、全ての領地はエルネスティン家が保持した。その結果、ザクセン=ヴァイマルは拡大と収縮を繰り返し、テューリンゲン諸公国は多くの飛び地を領有した。これは政治力が欠如する結果になり、諸公は代わりに居城の華麗さや文化への貢献を追求した。 領土喪失に苦しんだヨハン・ヴィルヘルムは翌1573年に死去、息子のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世が公位を継承した。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が1602年に死去すると、ザクセン=ヴァイマルは弟のヨハン2世と幼少の息子ヨハン・フィリップの間で分割され、ヨハン・フィリップはザクセン=アルテンブルクを獲得した。ヨハン2世の息子ヨハン・エルンスト1世は1617年に母のドロテア・マリア・フォン・アンハルトを埋葬するとき、実りを結ぶ会という国語協会を設立した。
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