フェルディナントのユダヤ人追放
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「ヨゼフォフ」の記事における「フェルディナントのユダヤ人追放」の解説
フェルディナントの治世ではユダヤ人の追放と呼び戻しが繰り返された。 1541年6月のプラハの大火の犯人として数人のユダヤ人が逮捕され、拷問の末に自白させられた。これが直接の原因となり、1541年にフェルディナントはプラハはじめボヘミア全土においてユダヤ人追放令を出した。追放令は二度の延期の後、1543年に実施された。しかしその後シュマルカルデン戦争が勃発し、ユダヤ人の資金力が必要となったため、フェルディナントはユダヤ人の居住を再び許可した。ところが1557年に再び追放令を出し、さらに1563年にそれが取り消された。 フェルディナントは財政基盤が脆弱であるため、経済的にはユダヤ人を常に必要としていたが、同時に彼は戦闘的カトリックだったので宗教的にはユダヤ人を激しく憎悪していた。このためユダヤ人の追放と呼び戻しが繰り返されたのであった。
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