フェルディナント・ピエヒ招聘と「クワトロ」
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1970年代後半、アウディの技術担当責任者にフェルディナント・ピエヒが迎えられる。彼はフェルディナント・ポルシェの孫で、これまでにポルシェのレーシングマシンの開発に関わっていた。このピエヒが収まった開発部門は、後に自動車業界全体に大きな刺激となる革新的技術を続々と生み出すことになる。 その手始めとして、1980年、サロン・アンテルナショナル・ド・ロトで自動車技術史に残るフルタイム四輪駆動システム「クワトロ」とその搭載車、アウディ・クワトロがデビューする。80をベースにブリスターフェンダー採用など外観を改良、搭載エンジンは200のターボエンジンをベースにインタークーラーを装着し、200PS/5,500rpm、29.1kgm/3,500rpmという高出力を発揮した。 それまでの4輪駆動車は2輪駆動との切り替え式である「パートタイム式」が一般的で、使用目的ももっぱら悪路で低速走行する場合に備えた駆動力確保であった。「アウディ・クワトロ」の場合、強力なエンジンの出力を四輪に分散させることで、悪路・良路の別なく、ラリー走行レベルの高速域まで常に確実な駆動力を得ることを狙ったのが特徴で、これを前提にセンター・デフ内蔵のフルタイム式とした事でも注目を集めた。のみならず1981年から世界ラリー選手権(WRC)に参戦して実際に多くの勝利を重ね、ラリー界に大きなショックを与えた。クワトロの出現以来、WRCでの勝利には四輪駆動は不可欠、という考え方が常識化した。 なお、川崎重工業と1972年にロータリーエンジンのライセンス契約を結んでいる。
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