フェルディナンド1世・デ・メディチの植民の試みとは? わかりやすく解説

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フェルディナンド1世・デ・メディチの植民の試み

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:10 UTC 版)

イタリアによるアメリカ大陸の植民地化」の記事における「フェルディナンド1世・デ・メディチの植民の試み」の解説

トスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチが、アメリカ大陸唯一イタリア植民地創設試み監督した17世紀初年トスカーナフェルディナンド1世ブラジルでの植民地可能性評価した。...フェルディナンドは(1608年遠征のために)ソーントン船長キャラベル船タルタン船各1隻を与えた。...ソーントン1年間航海行いガイアナブラジル到着してアマゾン川オリノコ川探検した。...1609年7月、(トスカーナの)リヴォルノ戻ったが、その年の2月フェルディナンド1世死亡しており、フィレンツェでは(フェルディナンド1世の後)誰も海外植民地建設することを考えている者はいなかった。 - マテオ・サンフィリッポ フェルディナンド1世17世紀始めに、アマゾンジャングルにある豊かさ取り込むために、ブラジル北部交易を行う植民地創設しようとした南アメリカから貴重な木材香料および鉱物ルネサンス期イタリアに運ぶ隆盛を極める貿易事業支配望んだ1595年アマゾン探検したイギリス人ロバート・ダドリー接触しアマゾン川オリノコ川で金を探索することについて助言得た1608年ダドリー私掠船使われていたガレオン船のサンタルチア・ブオナヴェンチュラ号を派遣してガイアナブラジル北部に向わせることについてフェルディナンド1世説得した。 このことを契機1608年フェルディナンド1世遠征のためにソーントン船長にこのガレオン船小型支援用船舶を与えたソーントン新しく整備されリヴォルノの港から出帆しガイアナブラジル到着してアマゾン川オリノコ川探検した1609年7月ソーントンリヴォルノ戻ったが、その年の2月フェルディナンド1世死亡しており、後継者コジモ2世海外植民地建設することに興味がなかった。ソーントンはその夏にリヴォルノルッカイタリア人開拓者連れてアマゾン川オリノコ川の間の地域に戻る用意ができていたが、この計画潰れた実際にソーントンガレオン船サンタルチア・ブオナヴェンチュラ号が1609年イタリア戻ったとき、トリニダード島アマゾン川デルタの間の地域探索した豊富な情報もたらし数人先住民熱帯オウム連れてきていた。 ソーントンイタリア植民地の場所として想定した地域現在のフランス領ギアナカイエンヌ近く)であり、それから間もない1630年フランスによって植民地化されることになった

※この「フェルディナンド1世・デ・メディチの植民の試み」の解説は、「イタリアによるアメリカ大陸の植民地化」の解説の一部です。
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