フェルディナント皇帝北部鉄道及びオーストリア帝国鉄道
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北部鉄道にはボヘミア(チェコ)方面へ延伸され工業地帯も通る主要路線として性格があった。しかし同時にウィーンに塩を供給する為の路線としての一面もあり、プロイセン(のちにドイツ)のオシフィエンチムを経由してクラクフ、ボフニアまで通じていた。地質学者で鉱山専門家であったフランツ・リープル(Franz Xabier Riepl, 1790~1857)は1830年ウィーンからクラクフまで鉄道の建設するこのを構想した。ザーロモン・マイアー・フォン・ロートシルト(マイアー・アムシェル・ロートシルトの息子で、オーストリアにおけるロスチャイルド財閥の祖)は投資者として探し出された。リープルは鉄道建設の経験を積むためにイギリスへ派遣された。リープルの帰国以後、ロートシルトは初めにフランツ2世に建設許可を請願したが、皇帝はそれに関して否定的に答えた。それでもロートシルトは準備作業を続いて、相当ルートの馬車鉄道を買い取って、リープルは鉄道施設を設計した。 フランツ2世の死後、ロートシルトは建設許可を再び申し込んで、メッテルニヒ侯爵とコロヴラト伯爵(Franz Anton Graf von Kolowrat-Liebsteinsky, 1778~1861)の支援によってフェルディナント1世から許可を獲得した。1836年3月4日にロートシルトはウィーン - ボフニャ区間に蒸気機関車鉄道敷設のための無期限の特権(Privileg)を獲得して、「皇帝フェルディナント北部鉄道(Kaiser-Ferdinands-Nordbahn, KFNB)」という路線名を提案した。約600 kmの路線距離はイギリス以外で最も長い距離の一つであった。鉄道建設の特権はブルノ、オロモウツ、オパヴァ方面鉄道路線の場合にも含まれていた。 1837年3月スティーブンソン工場とテイラー工場で製作された6機の機関車は部品の形態でトリエステ港に船舶編で到着した。機関車部品はゼメリング峠を経てウィーンまで輸送されて、スチーブンソン工場の技術チームはウィーンの試験線路でオーストリア技術者の教育や技術指導を担当した。1837年11月フロリドスドルフ - ドイチュ=ヴァグラムの13 km区間で列車の試運転が行って、最後の日であった11月23日は蒸気機関鉄道のオーストリアで最初に開通された日であると考えられている。1838年1月6日からウィーン北駅で旅客列車の運行が開始された。1839年7月7日にドイチュヴァグラム - ブジェツラウ区間及ブブジェツラウ - ブルノ区間が開通された。 北部鉄道は1906年10月にオーストリア側議員で構成された帝国議会で可決された法案により、1906年1月1日の遡及適用で国家の所有となった。北部鉄道の運営は1907年1月1日に帝国鉄道により引き受けられた。国有化の際は、関連企業の所有したオストラヴァ周辺の多数の鉱山鉄道や炭鉱などは北部鉄道の所有として残った。1918年11月より北部鉄道はオーストリア国営鉄道(Österreiche Staatsbahnen, ÖStB)の所属となって、国営鉄道はまた1923年連邦鉄道と改称された。
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