マルゲリータ・マリーア・ファルネーゼとは? わかりやすく解説

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マルゲリータ・マリーア・ファルネーゼ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/01 00:34 UTC 版)

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マルゲリータ・マリーア・ファルネーゼ
Margherita Maria Farnese
モデナ=レッジョ公
在位 1692年 - 1694年

出生 (1664-11-24) 1664年11月24日
パルマ公国パルマ
死去 (1718-06-17) 1718年6月17日(53歳没)
パルマ公国コロルノ
埋葬 パルマ公国パルマ、サンタ・マリア・デッラ・ステッカータ教会
結婚 1692年7月14日 パルマ
家名 ファルネーゼ家
父親 パルマ公ラヌッチョ2世・ファルネーゼ
母親 イザベッラ・デステ
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マルゲリータ・マリーア・ファルネーゼMargherita Maria Farnese, 1664年11月24日1718年6月17日)は、パルマ公国の公女。

生涯

パルマ・ピアチェンツァ公ラヌッチョ2世・ファルネーゼとその2人目の妻イザベッラ・デステとの娘。

母は弟オドアルド英語版を産んだ際に死去し、わずか2年で遺児となった。ラヌッチョは、マルゲリータの母方の叔母マリーア・デステと再婚し、2人の息子をもうけた。

コロルノの宮殿。マルゲリータ・マリーアはここで亡くなった

1692年7月14日パルマにて、モデナ・レッジョ公アルフォンソ4世・デステの息子フランチェスコ2世・デステと結婚した[1]。結婚の際、宮廷音楽人フランチェスコ・アントニオ・ピストッキは、公が好んだジャンルのオラトリオ『聖アドリアーノの殉教』を作曲した[2]

モデナ・レッジョ公妃であったは2年だけで、フランチェスコ2世は痛風多発性関節炎を患い、1694年に亡くなった。子供に恵まれなかったため、フランチェスコ2世の叔父リナルドが公位を継承した。

マルゲリータは1718年の夏に、母を亡くしたのと同じコロルノで死去[3]、そこは1660年に彼女の父により拡張と美化された要塞[4]とファルネーゼ家の夏の別荘[5]があった。

備考

  1. ^ http://genealogy.euweb.cz/italy/farnese2.html#MR2
  2. ^ http://www.grandezzemeraviglie.it/2001/calendario2001.html
  3. ^ http://www.genealogy.euweb.cz/welf/welf10.html#IF1
  4. ^ http://www.parmaitaly.com/colorno.html
  5. ^ http://www.bassaparmense.it/paesi/Colorno.htm

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