レオ・アフリカヌスとは? わかりやすく解説

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レオ・アフリカヌス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/11 03:54 UTC 版)

Leo Africanus

レオ・アフリカヌス
セバスティアーノ・デル・ピオンボ画「ある人文主義者の肖像」。一説によると、レオ・アフリカヌスを描いたものであるという。
生誕 1485年
ナスル朝グラナダ
死没 1555年
職業 旅行家、地理学者
時代 15世紀 - 16世紀
代表作 アフリカ誌英語版
宗教 イスラム教
→キリスト教
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レオ・アフリカヌス(Leo Africanus,1485年? - 1555年?)の名前で知られるハッサン・アル=ワッザーンは、全名をアル=ハッサン・ブン・ムハンマド・ル=ザイヤーティー・アル=ファースィー・アル=ワッザーンal-Hasan ibn Muhammad al-Zayyātī al-Fāsī al-Wazzān, حسن ابن محمد الوزان الفاسي)といい、ムーア人の旅行家、地理学者である。“レオ”はローマ教皇レオ10世から与えられた名で、“アフリカヌス”は通称にあたる[1]

来歴

1600年の英語版『アフリカ誌』

1489年から1495年の間に、スペインナスル朝の首都グラナダのアラブ系イスラーム教徒の家庭に生まれる。1492年のレコンキスタによるグラナダ陥落後、家族とモロッコフェズに移住し、叔父から教育を受け17歳で伴われて1509年から1513年にかけてソンガイ帝国を訪れた。数年後、再びこの地を訪れエジプトまで旅をした。1518年ごろトルコ旅行の帰途、シチリアジェルバ島の近くで海賊に捕えられる。ローマに送られて教皇レオ10世に献上され、洗礼名としてヨハンネス・レオを与えれられて教皇に仕えるようになり、キリスト教に改宗した。しかし教皇の死後はチュニジアに行き、再びイスラム教徒に戻ったといわれるが、晩年は謎が多い[1]

16世紀初めサハラの南を含む北アフリカ全域を旅し、その見聞を口述筆記による見聞録『海と陸の旅(航海と旅について)』にまとめた。この本は1550年にヴェネツィア共和国でイタリア語で出版されて反響を呼び、のちに『アフリカ誌英語版』と改題されて1556年フランス語ラテン語に翻訳され、1600年には英語に翻訳された。16世紀末までにほぼヨーロッパ全域で読まれるようになり、ヨーロッパにおいて黄金の国マリの風評が広まり、トンブクトゥを黄金郷とする伝説がつくり出され、その伝説は19世紀まで存続するほどであった[注釈 1]。この全9巻よりなる大著『アフリカ誌』は長いあいだ、ヨーロッパ人がイスラーム世界のアフリカを知るための最も貴重な手掛りであった[3]

脚注

注釈

  1. ^ たとえばトンブクトゥを治めるソンガイ帝国の代官について「金塊のなかには重さが1300リーブル(約440キログラム)というとてつもなく大きなものがある」などと記述している[2]

出典

  1. ^ a b 私市 2004, p. 34.
  2. ^ 私市 2004, pp. 58, 62.
  3. ^ 私市 2004, pp. 61–62.

参考文献

関連文献

外部リンク




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