モロッコ諸王朝の支配時代の繁栄と衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/24 08:56 UTC 版)
「シジルマサ」の記事における「モロッコ諸王朝の支配時代の繁栄と衰退」の解説
シジルマサを通じる交易システムで金のほかに重要なのは塩であった。テガーザを経由するルートが優位になってくるのは、ムラービト朝が興隆する時期と一致している。ムラービト朝は、1054年から55年にかけてシジルマサを征服した。それまでは、バヌー・グダーラ族のもつ大西洋のアウリール(島の意。現在のモーリタニアのイーン・ウォララン島ともいわれるが不詳)から輸出されるものが大部分であったが、グダーラ族がムラービト朝に反抗を企てるとムラービト朝の支配するサハラ中央部の交易路から締め出されるようになった。北アフリカへ向けての手工業製品や食料との交換をする金のネットワークは、砂漠に産する岩塩との取引を生み出すことになった。塩の取引によって、スーダンにさらに金がもたらされるようになった。 ムラービト朝、ムワッヒド朝、マリーン朝支配下の250年間に、シジルマサはイベリア半島南部のエブロ川からニジェール川に至るまでの帝国の広大なネットワークの一拠点都市として繁栄した。1393年、マリーン朝のスルタンが内乱でシジルマサの統治権を失うとその内乱に続く時代はシジルマサにとってもっとも縮小した時代となった。16世紀のアラブの歴史家レオ・アフリカヌスは、シジルマサの衰退していたこと、サアド朝時代にシジルマサが放棄され、さびれていたことを記述している。シジルマサは17世紀以降モロッコを支配するアラウィー朝揺籃の地でもあり、その支配下に守備隊が置かれ修復された。
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