トンブクトゥの歴史とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > トンブクトゥの歴史の意味・解説 

トンブクトゥの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/30 18:50 UTC 版)

トンブクトゥ」の記事における「トンブクトゥの歴史」の解説

古代より長らくサハラ砂漠越えたアフリカ内陸黒人北アフリカからやってくるベルベル人ムスリム商人出会う交易拠点であって間接的にヨーロッパから来る商人ともつながっていたことから、この都市まつわるさまざまな伝説物語伝えられた。それらの多くは、到達することの困難さ由来するものであり、ティンブクトゥという言葉は、「異国」や「遠い土地」の比喩として使われるようにもなった。 トンブクトゥは、遊牧民トゥアレグ族特定の季節だけの野営地起源であるが、その後、金や象牙奴隷、塩などの交易品が行来すサハラ砂漠通商路において重要な中継地として都市成長し、この地に興隆したガーナ王国マリ帝国ソンガイ帝国通じて莫大な富が集まる重要都市となった。ただし、砂漠地帯オアシス立地していたため、多く人口許容できるだけの食料や生活上の資材確保することが困難であった。そのため、トンブクトゥ物資供給するための都市網が後背地発展していくことになった1500年代初頭トンブクトゥ繁栄頂点迎え、その途方もない富の物語伝説伝えられたことを動機として、多くヨーロッパ人アフリカへ探検に向かうこととなった16世紀旅行家地理学者であるレオ・アフリカヌスが、1512年繁栄絶頂にあったソンガイ帝国訪れて次のような記述残している。 「トンブト(ママ)の富める王は、金で出来た杯や笏を数多く持ち、その重量は1,300ポンドにもなる(中略)また常時3,000人の騎手揃え、(中略)さらに多く医者裁判官司祭学者がおり、彼らは王の財によって手厚く養われている。」 しかし、ポルトガルや他のヨーロッパ諸国から来た探険家奴隷商人海路から西アフリカ上陸しサハラ砂漠経由しない通商路を開拓する至ってトンブクトゥ衰退始めた。さらに1591年にはモロッコ人のスルタン仕えていたムーア人傭兵集団占領されたことが、それに拍車をかけた。後に彼らの子孫は現地黒人混合した1828年にようやくこの町を訪れ生還した初めてのヨーロッパ人である探検家ルネ・カイエは、荒廃した泥の町と報告している。その後キリスト教徒伝道者訪れている。 サグラダ・ファミリア設計したアントニ・ガウディは、この地の泥土建てられモスク様式啓発されと言われている。

※この「トンブクトゥの歴史」の解説は、「トンブクトゥ」の解説の一部です。
「トンブクトゥの歴史」を含む「トンブクトゥ」の記事については、「トンブクトゥ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「トンブクトゥの歴史」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「トンブクトゥの歴史」の関連用語

トンブクトゥの歴史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



トンブクトゥの歴史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのトンブクトゥ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS