トンブリー王朝
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タイの歴史 |
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トンブリー王朝(トンブリーおうちょう、タイ語:ธนบุรี、1767年 - 1782年)は、タイ王国の正統王朝の一つ。首都はトンブリー。中国の潮州系タイ人・タークシン王(鄭昭)によって創設された。
歴史
今のチャクリー王朝の前の王朝にあたり、アユタヤ王朝が破壊された翌年(1767年)に、バンコクのチャオプラヤー川西岸に建設された。その翌年の1768年8月にタークシンは、清に使者を派遣し冊封を求めた。しかし乾隆帝はタークシンに否定的評価を下した。清朝との交渉は1769年に好転し、交易を再開し、武器や戦略物資等の獲得の道を開いた。
一方、1769年にピマーイ、ナコンシータマラートを占領、また同年にバッタンバン、シエムリエプを併合し、東北のロムサック、南部のパタニ、トレンガヌをも支配下に置き、1770年にはピサヌロークとその周辺を制圧し、北部地方の統治権を奪取した。しかし、国内の4勢力を退けてもなお、現在のカンボジア、ベトナム国境西端に脅威の勢力が存在した。1771年にハーティエンを攻撃したが失敗に終わる。1777年に西山の乱が起こり、宗主権争いをしているハーティエンの勢力を滅亡に追い込んだ。対中交渉を再開始し、数回目の使者を送り、冊封を認められ、硫黄、鉄の輸入に成功している。
タークシン王一代限り15年間続いたが、王朝末期、タークシン王が乱心を来たし、部下のチャオプラヤー・マハーカサット・スックに殺され、チャオプラヤー・マハーカサット・スック(ラーマ1世)が王に就いたことで幕を閉じた。
関連項目
トンブリー王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 21:50 UTC 版)
詳細は「トンブリー王朝」を参照 1766年から1769年にかけて清緬戦争が勃発し、1776年にはコンバウン王朝のビルマ軍がタイ領からほぼ撤収して圧力が弱まったこともあり、華僑の父とタイ人の母をもつタークシンが、華僑の支援のもと、1767年10月に奪還した要衝トンブリーを拠点としてアユタヤのビルマ勢力を排除することに成功し、1768年12月末にタークシン(在位1768-1782年)は王位に就いた。トンブリー王朝は新首都トンブリーを拠点にアユタヤを取り戻すとともに支配域を回復し、さらに拡大を図った。カンボジアに対しては、王座を巡る争いに介入し、1771年よりカンボジアに2度侵攻している。また、ラーンサーンは18世紀初頭、ルアンパバーン王国、ヴィエンチャン王国、チャンパーサック王国に分裂していたが、1778年にはヴィエンチャンとチャンパーサックを攻略し、ルアンパバーンを属国とした。 しかし、1770年代末より仏教に専心し、やがて精神的に偏重性を示したとされる王タークシンは、1782年初頭、クーデターにより追い詰められ、カンボジア遠征から戻ったチャオプラヤー・チャクリーにより同年4月6日処刑された。
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