埋葬地と遺体の行方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/22 16:43 UTC 版)
「アレクサンドロス3世の死」の記事における「埋葬地と遺体の行方」の解説
バビロンを出たアレクサンドロス3世の棺車は彼の故郷マケドニアに向かっていたが、途中のシリアで、アレクサンドロス3世の将軍の一人プトレマイオス1世によって止められた。プトレマイオス1世は紀元前322年後半もしくは紀元前321年前半に、遺体をエジプトへ送り、メンフィスで埋葬した。その後、紀元前4世紀後半から紀元前3世紀前半の間に、遺体はメンフィスからアレクサンドリアに改葬された。パウサニアスは、これが紀元前280年のプトレマイオス2世による施策だったとしている。さらにその後、プトレマイオス4世はアレクサンドロス3世の遺体をアレクサンドリアの共同霊廟に安置した。最後のプトレマイオス朝の君主クレオパトラ7世が死去して間もなく、アウグストゥスがこの霊廟を訪れた。アウグストゥスは墓に花をささげ、王の頭に黄金のダイアデムをかぶせたといわれている。4世紀までに、アレクサンドリアにおけるアレクサンドロス3世の遺体の所在が分からなくなった。後世の著述家であるイブン・アブドゥルハカムやマスウーディー、レオ・アフリカヌスなどは、自分がアレクサンドロス3世の墓を目にしたと主張している。レオ・アフリカヌスは1491年に、ジョージ・サンディスは1611年に、それぞれアレクサンドリアで墓を見たと記録している。ある伝説によれば、アレクサンドロスの遺体は初期キリスト教会の下の地下聖堂に眠っているのだという。
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