探険史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 00:09 UTC 版)
アフリカ大陸内陸部にニジェール川という川が流れていることは、古くからアフリカ以外の人々にも知られていた。アラブ人の中にはこの地域まで足を伸ばすものもおり、1352年にはイブン・バットゥータが当時マリ王国領だったニジェール河畔を訪れ、1355年に出版された彼の著書『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』にもニジェール川の記載がある。しかし、彼らが行くことができたのは中流域のみで、その川がどこに流れ込んでいるのかは、外部の誰にも知られていなかった。イブン・バットゥータも、ニジェール川をナイルと記し、ニジェール川はナイル川の支流であると考えていた。大航海時代が到来すると、ヨーロッパ人たちが海岸部に拠点を作るようになるが、彼らもレオ・アフリカヌスやアラブ圏のから書物の知識によってニジェール川の存在は知っていたものの、流路については謎のままだった。ナイル川、セネガル川、コンゴ川などとつながっていると考えるものも多かった。また、当時はヨーロッパの勢力は海岸部に限定されており、内陸部に行くことも難しかった。そんな中、1788年にロンドンにおいてアフリカ協会が設立され、アフリカ内陸部の探険に力が入れられるようになった。 ヨーロッパ人で最初にニジェール川流域にたどりついたのはムンゴ・パークである。1795年に出発した彼は、ガンビア川をさかのぼって東へ向かい、1796年7月20日にニジェール川に到達。その後も東進し、ニジェール内陸デルタの端のセグーまで到達した。1805年、2度目の探険に彼は出発し、中流を制覇してニジェール川の河口まで残り3分の1の地点までたどりついたが、現在のカインジ・ダム付近にあるブサで現地住民に襲撃され死亡した。この探険によってニジェール川の情報はかなり蓄積されたが、下流の流路および河口は未だ不明であった。 1822年にはディクソン・デンハムとヒュー・クラッパートン、ウォルター・ウドニーがサハラの北にあるリビアのトリポリから出発し、フェザーンやチャド湖を通ってカノへ、さらにソコト帝国の首都ソコトまでたどりついたが、そこから南下することはできなかった。一方、1824年にはフランス人のルネ・カイエがセネガル川から東へ向かい、ニジェール本流から外れているためパークが発見できなかったトンブクトゥにたどりついた。1825年にはヒュー・クラッパートンが2度目の探険にベニン湾から北上し、パークの死んだ地を確認した。ここでクラッパートンは熱病にかかり死去したものの、彼の従者であったリチャード・ランダーがそこからニジェール川を下り、スペイン領フェルナンド・ポー島(現ビオコ島)にたどりついたことで、ニジェール川はギニア湾のニジェール・デルタへと注いでいることが確認された。
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