探険と晩年
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その後は、考古学的な探検に興味を移し、朝日新聞の水谷幻花と交際するようになる。幻花の採集品を見たのをきっかけに、各地の貝塚や遺跡を発掘して出土品を蒐集する趣味が始まる。 その調査・研究の成果が『地底探検記』(明治40年8月 博文館)、『探検実記 地中の秘密』(明治42年5月 博文館)、日本の先住民をコロボックルとする坪井正五郎の説に基づいた空想冒険小説『考古小説 三千年前』(大正6年2月 實業之日本社)などの発刊に繋がっている。また、趣味を同じくする者との共同研究による太古遺跡研究会を組織し、太古遺物陳列所を自宅の庭に造っている。 また日原鍾乳洞探検や、戸隠山・富士山などの雪中登山も行うかたわら、太平洋、少年世界、探検世界各誌の主筆も務め、自身の行った探検の成果を発表していった。その一方で自伝的随筆『自己中心明治文壇史』は明治期の文人の生活の様子を克明に記し、文学史の資料としても貴重である。 晩年は講演などのために各地を回り、その旅の記録は『水蔭行脚全集』に詳しい。1934年11月3日、旅行先の松山市の旅館で急性肺炎のため客死した。 日本の相撲を「国技」と呼ぶのは、水蔭が旧両国国技館の開会式の案内文に「角力は日本の國技なり」と記載したことにヒントを得て、国技館と命名されたことがきっかけとされている。
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