科学の擁護者としての活躍
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「ジョゼフ・バンクス」の記事における「科学の擁護者としての活躍」の解説
帰国後、ロンドンに身を落ち着けたバンクスは、太平洋航海で収集した膨大な植物・動物標本に加え、パーキンソンによって描かれた約1500枚の絵を元に、ソランダーとともに『植物図譜』の制作に取りかかった。この図譜は1782年にソランダーが死去したこともあって、バンクスの生前に完成することはなかったが、約200年経った1980〜81年に、彼らが残した標本・銅版を元に、大英自然史博物館によって『バンクス植物図譜』の名前で100部のみ製作された。 1774年、王立協会の評議員にはじめて選出され、その後1778年11月に王立協会の会長に選出される と、その後41年間、死ぬまで会長職を続けた。1781年には準男爵の称号を得た。 1779年3月、ドロテア・ヒュージセンと結婚し、ソーホースクエアに終の住処となる邸宅を構えた。妹のサラは、終生、バンクス夫妻と同居した。バンクスはこの邸宅に、科学者や学生など多くの知識人や、外国からの賓客などを頻繁に招じ入れた。ソランダーらが、バンクスの収集品や蔵書などのコレクションの管理と論文の作成にあたった。 王立協会会長のバンクスは、イギリス科学界の牽引者の1人となった。とくに、国王ジョージ3世のアドバイザーとして、1773年にキューガーデンの顧問となったのをきっかけに同園の発展に尽力した。バンクスは世界各地に探検家と植物学者を派遣して植物を収集し、キューガーデンを世界屈指の植物園に育て上げた。多くの植物が、キューガーデンの収集活動を通じて、西欧に紹介された。このために、ジョージ・バンクーバーやウィリアム・ブライ(バウンティ号の反乱で有名)らの多くの探検航海をバンクスは企画した。皮肉にも、ブライが二度目の反乱に遭うことになるニューサウスウエールズの総督になるように彼を推したのも、またバンクスであった。他に、地理学者ウィリアム・スミスの、10年にわたるイングランド全図作成事業を財政的に支えたのも、バンクスであった。 ボタニー湾の名称からも察せられるように、バンクスにはオーストラリアに対して終生、強い思い入れがあり、ニューサウスウェールズ入植地のもっとも強力な擁護者であった。1779年、バンクスは下院議会で証言を行ない、自分の考えでは本国の囚人の受け入れ先として最も条件に適うのは、ニューホランド(当時のオーストラリアの呼称)沿岸地域のボタニー湾である、と主張した。バンクスの肩入れはその後も一向に衰えず、その後20年間、入植地の発展に尽力し続けた。実際、彼はオーストラリア諸問題に関する英国政府の総合顧問を務めた。入植地の農業と貿易の発展に対しても助力を惜しまず、初期の自由移民の航海にも便宜を図った。また、オーストラリアの地にメリノ羊を導入することを最初に提案したのも彼である。アーサー・フィリップら初期3代のニューサウスウェールズ総督たちは、バンクスと緊密な連絡を保っていた。オーストラリアの探険に取り組んだマシュー・フリンダース、ジョージ・バス、ジェームズ・グラント海軍大尉らの活躍に常に関心を払っていたし、アラン・カニンガムらバンクスがキューガーデンの植物収集のために雇用した探検家らも、オーストラリアの探険史に重要な足跡を残した。 1795年7月1日にバス勲章ナイト・コンパニオン章(KB)を授与され、1815年には同勲章の制度改定に伴いナイト・グランド・クロス章(KGC)を与えられた。 そんなバンクスも50歳を過ぎて健康を損ない始め、冬になると痛風に苦しむようになり、1805年以降は歩行の自由を失った。それでも相変わらず意気軒昂で、考古学者協会の会員になって晩年になって考古学にどん欲に取り組み、キューガーデンの発展とコレクションの充実のために働き続け、園芸学と農業の発展にも尽力した。ようやく死の直前になり、王立協会会長職から退く意向を示したが、彼の長年の貢献に尊敬の意を表した協会は辞表の受理を拒否した。バンクスは1820年6月19日、77歳でその生涯を終えた。バンクス夫妻の間に子は無かった。
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