信仰論争
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昭和27年(1952年)、クリスチャンである北海道拓殖銀行支店長の男性と信仰論争を行う。ことの発端は、妻・文子が夫がキリスト信仰に無理解であることをクリスチャンの集会で相談し、その男性が心配して自ら立石家を訪問したことから始まる。その男性は終始紳士的で礼儀正しい態度であったので、賢治は追い返すことが出来ず1時間以上にも亘って対論を行った。当時、賢治は共産主義革命こそが、世間を更生し、皆が幸福を享受出来る方法であり、宗教は人間を惑わす阿片のように有害なもので、神を信ずる人間の心を粉砕しなければならないと考えていた。 神などという概念は無と同じで、そんな信仰によって世の中が変わる訳が無い。(中略)事実、神がいるのなら、戦争のとき神は何をしてくれたというのか?『神風が吹く』と言ったけど、ちっとも吹かなかったじゃないか。 — 立石賢治 話は平行線を辿り、夫婦の溝は深まるばかりであった。この頃の賢治は、国際共産主義指導者の一人として、常に大衆の中にあり労働運動を推し進め、革命家としての生涯を貫いた片山潜の生き方に共鳴しており、 革命のためには命を惜しんではならない。またその行動総てに私情を差し挟んではならない。 — 立石賢治 と考えていた。
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