信元殺害の原因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 15:17 UTC 版)
『松平記』が記す信元殺害の原因は、秋山信友が攻略した美濃国岩村城を天正3年(1575年)に信長が囲城した際、水野領から食料の調達に応じる者があり、これを聞いた佐久間信盛が信長に対して、信元の内通を訴えたというものである(巻6)。 信元の死後、その所領は、信盛が失脚する天正8年(1580年)までの間、佐久間領となったことが「小河かり屋跡職申し付け」との「信長公記」(巻13)の記述より推測されている。 信元の死に佐久間信盛が関与したかどうかはともかく、この出来事は三河からの武田氏の脅威が除かれた時点で起こったことから考えて、尾張、三河において信元が持つ権力の排除が目的であったという見方もできる。『新編東浦町誌 本文編』(1998年刊行)は信元殺害が、織田・徳川双方の合意によってなされたものであるとする(203項)。現存する文書から、彼が三河の領国支配に関与していたことが推定でき、後に彼の存在が織田・徳川両家にとって目障りかつ不用なものとなっていたのではないかとも推測できる。
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