信友の生涯と領国支配とは? わかりやすく解説

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信友の生涯と領国支配

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 01:19 UTC 版)

穴山信友」の記事における「信友の生涯と領国支配」の解説

穴山氏甲斐国南部河内地方国人戦国期甲斐では守護武田氏家中内訌発生し甲斐国内の有力国衆駿河国今川氏相模国後北条氏など対外勢力との関係が相関して乱国態となっていた。武田宗家では永正4年1513年)に守護武田信縄死去し信縄の嫡男・信直(信虎)が家督を継ぐと、信虎叔父油川信恵との間で抗争再発する穴山氏当主穴山信懸今川氏帰属して信縄と敵対していたが、信虎期に和睦し武田宗家外戚として良好な関係を築いていたと考えられている。 一方で穴山家中においては武田宗家敵対的な駿河今川氏への帰属を望む反信懸派が存在したといわれ、永正10年1513年)に信懸は実子清五郎により暗殺されている。信友永正3年頃に出生した考えられているが、父・穴山信風は信懸死後家督継ぎ享禄4年1531年3月12日4月12日とも)には死去している。同年には信虎甲斐国衆・信濃国諏訪氏との抗争活発化しており、信風命日にあたる3月12日には西郡河原部韮崎市)において今井氏栗原氏飯富氏諏訪氏らの連合軍信虎撃破した河原部合戦起きている。信風系図類においても錯綜があり、信友信君親子から供養受けている形跡見られず、河原部合戦命日同日であることからこの時期穴山氏は反武田であった可能性考えられている(平山 2011)。 その後信虎甲斐統一達成し信友は信懸死後家督継ぎ穴山氏武田宗家帰属した。武田宗家今川氏敵対天文4年1535年)に激化し6月19日には河内領の万沢郷において両軍合戦起きている。翌天文5年には今川家当主・氏輝死後家督争い発生し花倉の乱)、義元新たな当主となる。義元期に今川氏武田氏和睦し同盟関係を結ぶ(甲駿同盟)。同年には婚姻同盟開始され今川氏仲介し信虎嫡男・晴信(信玄正室京都三条家から三条夫人迎えられ、さらに翌天文6年1537年)には信虎娘が義元室として嫁いでいる。 いずれの婚姻輿入れに際して河内領を通過しており、穴山氏婚姻仲介行っていたと考えられている。信友自身も、嫡男信君出生時期から同時期に信虎娘の南松院殿を室に迎えていると考えられており、信友武田家中における御一門衆として、武田宗家との関係が強化された。 天文10年1541年)には晴信による信虎追放が行われ、信虎河内領を経て駿河今川氏の許へ引き渡されている。信虎追放により家督相続した晴信は信濃侵攻開始するが、信友信濃侵攻において天文14年1545年)に信濃守護・小笠原長時連合した伊那郡藤沢頼親攻め参加し同年6月10日には小山田信有 (出羽守)勝沼信友と共に頼親の弟・権次郎を人質として引き取っている(『高白斎記』『勝山記』)。なお、天文18年1549年9月信友藤沢頼親の弟・権次郎を晴信に出仕させており、藤沢氏は穴山氏寄親としていた可能性考えられている。 『甲陽軍鑑』において、このほか平沢大門峠合戦海野平合戦碓氷峠合戦川中島の戦い塩尻峠の戦いなどで活躍したとされているが、『甲陽軍鑑』では信濃侵攻においては晴信の弟・信繁大将務めたとし、信友別働隊率い立場として記されている。文書・記録においては塩尻峠合戦川中島の戦い除いて信友活動確認されず、軍役における穴山衆の活動乏しく次代信君期に顕著となる。 また、河内領では穴山氏入部以前南部氏存在し領域南部で甲駿国境に近い南部南巨摩郡南部町)を本拠としていたが、天文16年1547年)頃には河内領の伝統的中心地である南部から、領域北側下山館(穴山氏館、同郡身延町)に本拠移転し城下町整備している。 信友武田宗家従属後も今川氏との外交ルート維持しており、天文16年1547年2月16日には義元富士山本宮浅間大社太刀奉納し(「大宮司富士家文書」)、義元からは今川家食客として滞在していた正親町三条実望旧領である駿河山西稲葉荘与えられており、武田今川氏婚姻穴山氏仲介したための給与であるとも考えられている。なお、同年9月には南松院大般若経修補している。 武田氏信濃侵攻越後国長尾景虎上杉謙信)との戦いに際して今川氏のみならず相模後北条氏含めた甲相駿三国同盟築いているが、三国婚姻同盟一環として天文21年1552年2月2日には駿府において晴側近駒井高白斎と共に義元息女と晴信の嫡男武田義信との婚姻仲介しており、同年11月27日には河内領を通じて義元息女輿入れが行われ、義元息女甲府穴山氏館を経て躑躅ヶ崎館入っている(『高白斎記』)。 信友の終見文書永禄元年推定1558年6月2日付勝仙院宛書状で、同年末からは信君発給文書見られることからこの頃には隠居した見られ隠居後出家名の「幡龍斎」を称している。なお、永禄2年6月4日には三男・彦九郎死去している。 信友隠居後今川氏との外交携わっており、永禄3年1560年5月19日桶狭間の戦いにおいて義元討死今川家では氏真に家督交代すると、信友武田氏との同盟継続確認している(『甲斐国志』)。同年12月16日死去享年55(「武田家過去帳」)。12月23日には氏真から嫡男信君弔問状が送られている(「文書纂」)。 墓所南部町南部円蔵院円蔵院には信友肖像画(「絹本著色穴山信友画像」)も所蔵されている。信友肖像永禄10年1567年)の作で、信友七回忌信友夫人死去した年にあたる。美濃国岩村大圓寺住職希庵玄密による讃文がある。身延町下山南松院には永禄9年1566年制作信友夫人所蔵されており、信友像と共通性見られることから、同じ工房制作されたとも考えられている。

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