信友期の領域支配と下山館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 01:19 UTC 版)
「穴山信友」の記事における「信友期の領域支配と下山館」の解説
信友期には河内領の領域支配に関して40通の発給文書が残されており、穴山氏の河内支配に関しては信友期にはじめて文書が確認され、次代の信君期には点数が増加する。初見文書は天文3年(1534年)1月吉日に信友は福士郷の佐野将監に対して官途状を与え、地域の土豪を掌握していることが確認される(「佐野家文書」)。同年3月にも棟別諸役の免許を行っている。 また、戦国期甲斐国では金山経営が行われ、武田宗家でも黒川金山などの金山衆を掌握していることが確認されるが、信友期の河内領では北部早川流域の黒桂金山や保金山などの諸金山が存在し、代官の派遣や奉公を命じた文書が確認されており、金山のみならず木材の産出も行われている。 なお、戦後の戦国大名論においては地域国衆の存在が注目され、矢田俊文は穴山氏を守護武田氏から一定の自立的権力をもった戦国領主であったと評している。これに対して平山優は、穴山氏の領域支配文書の初出が武田宗家への帰属を強めた信友期からであることや、領域支配に関する文書があくまで宗家の支配秩序から逸脱していない点を指摘している。
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