信仰者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 22:58 UTC 版)
かつて高梁教会によって幼少期の虐待から救い出され、福西に匿われながら青年期を過ごした留岡幸助は、自編著『信仰美談』において、福西を日本キリスト教の歴史上において細川ガラシャ、丹波ノブに並ぶ「信仰の人」であると評した。留岡にとって福西は信仰上の姉分にあたるため、身内贔屓の側面は決して否定できないが、それを勘案してなお留岡は福西の信仰の姿勢を高らかに褒め称え、順正女学校の設立と以降において女学校が優秀な人材を輩出していった成果を「信仰の力」と評している。 明治13年(1880年)に新島襄の高梁での伝道を聞いた福西は、そこに幼い頃より山田方谷を通して体感していた至誠惻怛の精神、すなわち「博愛主義」や「平等主義」が体現されている事に気付く。未だ高梁という地の当時の価値観においては異端であった、その考えを肯定してくれる、この教えは福西にとっては正真正銘の福音であったとも言われる。以降、福西は真摯に、この信仰と向き合う事となった。 明治期に高梁において起こった3回の反教運動を超え、公職を追われてなお棄教に至らなかった福西の信仰への姿勢は疑いようが無いとされる。
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