インディアスの破壊についての簡潔な報告
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『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(インディアスのはかいについてのかんけつなほうこく、西: Brevísima relación de la destrucción de las Indias)は、1552年にスペイン出身のドミニコ会士であるバルトロメ・デ・ラス・カサス(1484年-1566年)が著した書籍。インディアス破壊を弾劾する簡略なる陳述という日本語訳もある。以下、『報告』と略記する。
注釈
- ^ スペインの征服活動を行う人間は、法的には発見者・植民者・平定者などに分かれていた。指導的な地位にあるのが発見者で、発見した土地で入植を進めるのが植民者であり、植民者は入植者に土地を配分した。征服の初期は、これらの役割は同一人物が兼ねる場合も多かった[1]。
- ^ コロンブスは1498年にオリノコ川、1503年にはパナマに到達する。1508年にスペインがパナマに植民地を建設し、1521年にエルナン・コルテスのアステカ帝国征服が続いた[7]。1529年までに5483人、1520年から1539年にかけて13262人がアメリカ大陸へ渡った記録があり、実際にはこの約5倍の人数がいたといわれる[8]。
- ^ ビトリアは、以下のいずれがインディオによってなされたとしても、それは征服戦争を正当化しないと論じた。(1) 自然奴隷的本性、(2) 皇帝の支配権の拒否、(3) 教皇の権威の否定、(4) 発見の権利の否定、(5) 改宗拒否、(6) 自然法に反する罪、(7) 自発的選択、(8) 神の意思への抵抗[10]。
- ^ ラス・カサスは18歳からニコラス・デ・オバンド総督の指揮下でエスパニューラ島へ渡り、聖職者になる前の1503年から1504年にかけてもインディオへの弾圧を目撃していた[12]。
- ^ ラス・カサスは良心に目覚めたきっかけとして、ミサの準備として読んだ『集会の書』第34章の内容もあげている[13]。
- ^ インディアス新法の理念は良い統治とカトリック信仰の拡大であり、第1部はインディアスの統治機関に関する条項、第2部は先住民に関する条項となる。第2部に奴隷禁止(第21-25条)やエンコミエンダ(第26-31条)について書かれている[15]。
- ^ 当時のスペインは戦費の増大で財政難状態にあり、王室の財源強化のためにエンコミエンダ所有者を排除する狙いもあった[19]。
- ^ 反乱の首謀者は、インカ帝国を征服したフランシスコ・ピサロの異母弟であるゴンサロ・ピサロだった[21]。
- ^ エンコミエンダ廃止運動では、インカ帝国時代には対立していたインカ系と非インカ系のインディオが協力した[22]。
- ^ チアパス司教区の司教になったが、1年ほどで職務の継続が困難になった[24]。
- ^ アリストテレス研究者だったセプルベダは、アリストテレスの『政治学』から奴隷に関する説を援用し、インディオは自然な奴隷であり、征服はインディオを文明化するとして正当化した[26]。
- ^ 現在のダリエーン湾を囲むパナマ、コスタリカ、コロンビアの海岸[33]。
- ^ 匿名人物のすべてが批判の対象というわけではなく、伝道士なども含まれる[39]。
- ^ ラス・カサスは『インディアス史』でも降伏勧告状を批判している。スペイン国王の権力を認めつつ、インディアスの支配者たちの統治権を尊重すべきと論じた[57]。
- ^ イサベル1世は、1500年の勅令でインディオをカスティーリャの臣民である自由民として扱い、奴隷化を禁じた。1503年の勅令では、インディオの労働への正当な対価、改宗の促進、貴金属採掘へのインディオの動員などを命じた[60]。
- ^ 8篇のタイトルと出版時期は、『現存する悪の矯正』(8月中旬)、『論戦概要』(9月上旬)、『インディオの奴隷化をめぐって』(9月中旬)、『聴罪規範』(9月下旬)、『30の法的命題集』(10月上旬)、『王権とインディオの権利について』(10月下旬)、『報告』(11月下旬)、『カスティーリャ・レオン国王のインディアス支配権論』(1553年1月上旬)[66]。
- ^ 宣教師としてアントニオ・デ・レメサル、アグスティン・カランチャ、フアン・デ・トルケマーダ、啓蒙主義者のベニト・フェイホーらがいる[73]。
- ^ 『報告』が黒い伝説であると論じた者として、フリアン・フデリーアス、マルセリーノ・メネンデス・ペラーヨ(『報告』が妄想の産物だと論じた)、コンスタンティーノ・バイレ、ラモン・メネンデス・ピダル(『ラス・カサス神父。その二重人格』著者)、ペドロ・ボルヘス(『ラス・カサスの正体』著者)、エンリケ・ディアス・アレウホ(『史料で語るラス・カサス像』著者)らがいる[74]。
- ^ 修道会がアメリカで本格的に伝道を始めたのは、1523年のフランシスコ会を最初として、ドミニコ会(1526年)、アウグスティヌス会(1536年)がそれぞれ12人となる。現地の貴族層の教育や伝道活動を行い、結果として文化破壊を行う場合もあった[92]。
出典
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