クレピーの和約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/23 20:29 UTC 版)
「第五次イタリア戦争」の記事における「クレピーの和約」の解説
このころ、カールは資金不足に悩まされ、さらに宗教問題にも対処しなければならなかった。彼はついにヘンリーに手紙を出し、侵攻を続けるか単独講和かの選択をヘンリーに委ねた。しかし、手紙がヘンリー8世の許に届いたころにはすでに講和が終わった。カールとフランソワの代表は1544年9月18日にクレピー(英語版)でクレピーの和約に署名した。和約の成立にはフランソワ1世の王妃レオノール(カール5世の姉)と愛妾エタンプ公爵夫人が橋渡し役を務めたことが大きい。条約の内容は、フランソワ1世とカール5世がお互いの領土への請求を放棄し、1538年時点での国境を回復する、というものだった。具体的には皇帝がブルゴーニュ公国への請求を取り下げる代わりに、フランソワ1世がナポリ王国への請求を取り下げ、フランドルとアルトワへの宗主権も取り下げる。また、政略結婚の一環として、オルレアン公がカール5世の娘マリアか姪アンナと結婚する。持参金はマリアと結婚した場合ネーデルラントとフランシュ=コンテで、アンナと結婚した場合ミラノになる。一方、フランソワ1世はブルボン公領、シャテルロー、アングレームをオルレアン公に授け、サヴォイア公国とピエモンテへの請求を取り下げる。さらに、フランソワ1世はカール5世のオスマン征伐を援助することを約束した。二人の間には秘密条約があり、フランソワ1世がプロテスタントの武力鎮圧と公会議の開催を約束した。 しかし、フランスの王太子アンリは彼ではなくオルレアン公の結婚が定められたことに不満だった。ヘンリー8世もカールの裏切りに怒り、スレイマン1世も不満であった。フランソワは条約を一部履行したが、オルレアン公が1545年に死去したことで条約が骨抜きとなった。
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