カール5世との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 06:01 UTC 版)
「パウルス3世 (ローマ教皇)」の記事における「カール5世との対立」の解説
1544年のクレピーの和約以降、カール5世はドイツ国内における発言力を急速に増し、プロテスタントと肩入れする諸侯を武力で粉砕しようと企んだ。ヴォルムス帝国議会の合間に、皇帝は教皇使節として派遣されていた教皇の孫アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿との間に約定を交わし、プロテスタントに対する武力攻撃に対する教皇のお墨付きを得た。 教皇はカール5世がドイツ問題にかかりきりになっている隙を突く形で、息子ピエロ・ロドヴィコをパルマ及びピアチェンツァ公にしようと考えた。教皇領内の問題ではあったが、枢機卿会にも反対者が多く、教皇は息子をカメリーノ及びネピ公とする事で妥協せざるを得なかった。教皇は諦めきれずに皇帝に協力を求め、皇帝は兵力と軍資金の提供と引き換えに尽力を約束した。 カール5世は1542年からドイツ西部において対プロテスタント諸侯との戦いを開始、すでに破門されていたヴィエドのヘルマンを破り、これを追放する事に成功した。続いて、反皇帝で連合していたシュマルカルデン同盟軍との全面戦争に入り、これを破り、南ドイツ全域を完全に支配する事に成功した。1547年4月24日のミュールベルクの戦いでの勝利によって、シュマルカルデン同盟の主要な指導者であるザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒとヘッセン方伯フィリップを捕らえる事に成功し、ドイツ全域に対して影響力を持つようになった。 皇帝は「暫定規定」に従いながら、ドイツにおけるカトリックの勢力回復に尽力していたが、協力者であったはずの教皇との関係は冷え込んでいった。原因の1つは皇帝が協力を約束していた教皇の息子をパルマおよびピアチェンツァ侯にするという約束が果たされなかった事であった。それどころか皇帝の圧力を受けた使節フェルディナンド・ゴンサーガによってピエロ・ロドヴィコが追放された事で教皇と皇帝の関係決裂は決定的となった。 やがてピアチェンツァでピエロ・ロドヴィコが暗殺されると、教皇は事件の黒幕が皇帝であると信じて疑わなくなった。が、その年に同盟関係を模索していたフランス王フランソワ1世が死去した為、状況的に教皇はカール5世と手を組まざるを得なくなった。ピエロ・ロドヴィコの死に関連して教皇が教会の名によって求めた賠償は、ピエロ・ロドヴィコの息子で皇帝の婿でもあるオッタヴィオ・ファルネーゼが拒否した為、支払われなかった。この事がファルネーゼ枢機卿と教皇との間のいさかいにつながり、81歳の高齢であった教皇は精神的にダウンし、病を得るとこの世を去った。 パウルス3世の治世に明らかになったのは、もはやプロテスタント運動が教皇の意思1つでどうにかなる程小さなものではないという事であったが、彼の時代に教皇庁改革とトリエント公会議が始められた事で対抗宗教改革の基盤が築かれたといえる。
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