カール5世の世界帝国と宗教改革とは? わかりやすく解説

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カール5世の世界帝国と宗教改革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 17:51 UTC 版)

神聖ローマ帝国」の記事における「カール5世の世界帝国と宗教改革」の解説

詳細「宗教改革」および「イタリア戦争」を参照 16世紀入ったこの時期フランスイングランドスペインでは中央集権化進められていたが、既述通りドイツでは逆に諸侯特権強化される傾向にあった。そして、ドイツではカール5世治世神聖ローマ帝国解体決定的にさせる事態生じる。 カール5世神聖ローマ帝国統治し始め以前1517年マルティン・ルターヴィッテンベルク大学発表した95ヶ条の論題』が宗教改革発端となったローマ・カトリック教会大きな財源となっていた贖宥状効力疑義呈するこの論題活版印刷普及もあってドイツ各地広まって大きな反響呼び事態憂慮し教皇レオ10世ルターローマ出頭命じるが、ルター領主であるザクセン選帝侯フリードリヒ3世賢公)の庇護受けてこれに応じなかった。ドイツ内のアウクスブルクライプツィヒ行われた異端審問ルター教皇庁側と決裂した1520年ルターは『ドイツ貴族与える書』、『教会のバビロニア捕囚』、『キリスト者の自由』を発表し三大宗教改革論)、これに対して教皇庁ルター破門通告する勅書送って自説撤回を迫る。ルターヴィッテンベルク公衆の前で、この勅書燃やして答えた1520年カール5世ヴォルムス帝国議会開き先代マクシミリアン1世から引き継いだフランスとのイタリア戦争のために諸侯妥協し帝国統治院の再設置承認させられた。この帝国議会ルター召喚され審問受けたが、彼は断固たる態度自説撤回拒否したカール5世ヴォルムス勅令ドイツ語版)を発してルター帝国追放処して著書禁圧したが、ルターフリードリヒ賢公に匿われ、ヴァルトブルク城新約聖書ドイツ語翻訳成し遂げたヴォルムス帝国議会が終わるとカール5世スペイン帰国し以後10年間もドイツでは皇帝不在となる。1525年パヴィアの戦い皇帝軍はフランス王フランソワ1世捕虜とする大勝をおさめ、カール5世北イタリアからフランス勢力駆逐できた。フランソワ1世不利な内容マドリード条約締結余儀なくされたが、解放され帰国するとこの条約反故してしまい戦争はなおも継続し、更にスペイン脅威感じた新教クレメンス10世フランス加担する事態まで生じる(第二次イタリア戦争)。この戦争最中1527年皇帝軍による「ローマ劫掠」が発生しヨーロッパ精神世界大きな衝撃与えた一方ドイツでは1521年から1524年にかけてルター福音主義大きく広がりルター支持者たちは独自解釈を始めて過激な改革運動各地引き起こされた。また、スイスではチューリッヒ市フルドリッヒ・ツヴィングリ宗教改革運動主導し更にはより急進的な再洗礼派現れスイス諸州や南ドイツ波及している。1522年宗教改革運動乗じて地位回復図った騎士階層蜂起して騎士戦争起こったが、短期間諸侯連合軍敗北した続いて1524年から急進的な宗教改革唱えるトマス・ミュンツァーらに主導された農民層が各地蜂起してドイツ農民戦争勃発する農民たちは農奴制廃止司祭任免要求といった「12ヶ条の要求」を掲げたルター当初農民諸侯双方非難したが、やがて諸侯の側に立ち農民反乱軍を激しく非難している。統制欠いた農民反乱軍は短期間鎮圧され7-10万人殺された。 農民戦争鎮圧通して諸侯権力強まり以降ドイツにおける宗教改革諸侯主導される。宗教改革諸侯にとって教皇庁支配から逃れられ政治的経済的メリットがあった。1528年までにドイツ騎士団ヘッセン方伯ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯マンスフェルト伯などの諸侯、そしてストラスブールフランクフルトニュルンベルクといった諸都市ルター派になっていた。ヘッセン方伯フィリップ1世ザクセン選帝侯ヨハン中心とするルター派教会改革要求し1529年シュパイエル帝国議会ヴォルムス勅令の実施重ねて決定されると、ルター派の5人の諸侯14帝国都市が「抗議書」(Protestatio)を提出し、これにちなんルター派はじめとする教会改革派はプロテスタント呼ばれるようになった。 この時期オスマン帝国脅威神聖ローマ帝国迫っていた。1396年ニコポリスの戦いハンガリー王ジギスムント率いる対オスマン十字軍大敗喫して以降オスマン帝国バルカン半島支配固めており、1520年即位したスルタン・スレイマン1世ヨーロッパ進攻開始した。彼はまずハンガリー攻撃してベオグラード奪取し1526年モハーチの戦いハンガリー王ラヨシュ2世戦死させる決定的勝利をおさめたその後カール5世の弟フェルディナントハンガリーボヘミア王継承したが、ハンガリー中部オスマン帝国占領地西部フェルディナント支配する西ハンガリー王国そして東部対立王立てた現地諸侯にと各々支配されいわゆる三分割時代となった1529年オスマン軍ウィーン包囲する第一次ウィーン包囲)。ウィーン陥落免れたが、この後カール5世オスマン帝国との戦い強いられフランス王フランソワ1世オスマン帝国結んだためにより困難なものとなったローマ劫掠後、フランス王フランソワ1世イングランド王ヘンリー8世盟約結んでナポリ侵攻したが、ジェノヴァ離反したため遠征失敗終わったフランス形勢悪化する教皇クレメンス10世カール5世講和を結び、イングランド王ヘンリー8世フランスを見離し始める。1529年カンブレーの和が結ばれフランスイタリアにおける権益放棄させられた。イタリアにおける覇権確立したカール5世は、1530年ボローニャにおいて教皇の手による皇帝戴冠式挙行し、彼が教皇による戴冠受けた最後の皇帝となった

※この「カール5世の世界帝国と宗教改革」の解説は、「神聖ローマ帝国」の解説の一部です。
「カール5世の世界帝国と宗教改革」を含む「神聖ローマ帝国」の記事については、「神聖ローマ帝国」の概要を参照ください。

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