カール5世の世界帝国と宗教改革
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「神聖ローマ帝国」の記事における「カール5世の世界帝国と宗教改革」の解説
詳細は「宗教改革」および「イタリア戦争」を参照 16世紀に入ったこの時期、フランス、イングランド、スペインでは中央集権化が進められていたが、既述の通りにドイツでは逆に諸侯の特権が強化される傾向にあった。そして、ドイツではカール5世の治世に神聖ローマ帝国の解体を決定的にさせる事態が生じる。 カール5世が神聖ローマ帝国を統治し始める以前の1517年にマルティン・ルターがヴィッテンベルク大学で発表した『95ヶ条の論題』が宗教改革の発端となった。ローマ・カトリック教会の大きな財源となっていた贖宥状の効力に疑義を呈するこの論題は活版印刷の普及もあってドイツ各地に広まって大きな反響を呼び、事態を憂慮した教皇レオ10世はルターにローマ出頭を命じるが、ルターは領主であるザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢公)の庇護を受けてこれに応じなかった。ドイツ内のアウクスブルクとライプツィヒで行われた異端審問でルターは教皇庁側と決裂した。1520年にルターは『ドイツ貴族に与える書』、『教会のバビロニア捕囚』、『キリスト者の自由』を発表し(三大宗教改革論)、これに対して教皇庁はルターに破門を通告する勅書を送って自説の撤回を迫る。ルターはヴィッテンベルクの公衆の前で、この勅書を燃やして答えた。 1520年にカール5世はヴォルムス帝国議会を開き、先代マクシミリアン1世から引き継いだフランスとのイタリア戦争のために諸侯に妥協し、帝国統治院の再設置を承認させられた。この帝国議会にルターが召喚されて審問を受けたが、彼は断固たる態度で自説の撤回を拒否した。カール5世はヴォルムス勅令(ドイツ語版)を発してルターを帝国追放に処して著書を禁圧したが、ルターはフリードリヒ賢公に匿われ、ヴァルトブルク城で新約聖書のドイツ語翻訳を成し遂げた。 ヴォルムス帝国議会が終わるとカール5世はスペインへ帰国し、以後約10年間もドイツでは皇帝不在となる。1525年のパヴィアの戦いで皇帝軍はフランス王フランソワ1世を捕虜とする大勝をおさめ、カール5世は北イタリアからフランス勢力を駆逐できた。フランソワ1世は不利な内容のマドリード条約の締結を余儀なくされたが、解放され帰国するとこの条約を反故にしてしまい、戦争はなおも継続し、更にスペインを脅威と感じた新教皇クレメンス10世がフランスに加担する事態まで生じる(第二次イタリア戦争)。この戦争の最中の1527年に皇帝軍による「ローマ劫掠」が発生し、ヨーロッパ精神世界に大きな衝撃を与えた。 一方、ドイツでは1521年から1524年にかけてルターの福音主義は大きく広がり、ルターの支持者たちは独自解釈を始めて過激な改革運動が各地で引き起こされた。また、スイスではチューリッヒ市のフルドリッヒ・ツヴィングリが宗教改革運動を主導し、更にはより急進的な再洗礼派が現れてスイス諸州や南ドイツに波及している。1522年に宗教改革運動に乗じて地位回復を図った騎士階層が蜂起して騎士戦争が起こったが、短期間で諸侯連合軍に敗北した。続いて、1524年から急進的な宗教改革を唱えるトマス・ミュンツァーらに主導された農民層が各地で蜂起してドイツ農民戦争が勃発する。農民たちは農奴制の廃止や司祭任免権の要求といった「12ヶ条の要求」を掲げた。ルターは当初は農民、諸侯双方を非難したが、やがて諸侯の側に立ち農民反乱軍を激しく非難している。統制を欠いた農民反乱軍は短期間で鎮圧され、7-10万人が殺された。 農民戦争鎮圧を通して諸侯の権力は強まり、以降ドイツにおける宗教改革は諸侯に主導される。宗教改革は諸侯にとって教皇庁の支配から逃れられる政治的経済的メリットがあった。1528年までにドイツ騎士団、ヘッセン方伯、ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯、マンスフェルト伯などの諸侯、そしてストラスブール、フランクフルト、ニュルンベルクといった諸都市がルター派になっていた。ヘッセン方伯フィリップ1世やザクセン選帝侯ヨハンを中心とするルター派は教会改革を要求し、1529年のシュパイエル帝国議会でヴォルムス勅令の実施が重ねて決定されると、ルター派の5人の諸侯と14の帝国都市が「抗議書」(Protestatio)を提出し、これにちなんでルター派をはじめとする教会改革派はプロテスタントと呼ばれるようになった。 この時期、オスマン帝国の脅威が神聖ローマ帝国へ迫っていた。1396年のニコポリスの戦いでハンガリー王ジギスムント率いる対オスマン十字軍が大敗を喫して以降、オスマン帝国はバルカン半島の支配を固めており、1520年に即位したスルタン・スレイマン1世はヨーロッパ進攻を開始した。彼はまずハンガリーを攻撃してベオグラードを奪取し、1526年のモハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世を戦死させる決定的勝利をおさめた。その後、カール5世の弟フェルディナントがハンガリー=ボヘミア王を継承したが、ハンガリーは中部のオスマン帝国占領地、西部のフェルディナントの支配する西ハンガリー王国そして東部は対立王を立てた現地諸侯にと各々支配され、いわゆる三分割時代となった。1529年にオスマン軍はウィーンを包囲する(第一次ウィーン包囲)。ウィーンは陥落を免れたが、この後もカール5世はオスマン帝国との戦いを強いられ、フランス王フランソワ1世がオスマン帝国と結んだためにより困難なものとなった。 ローマ劫掠後、フランス王フランソワ1世はイングランド王ヘンリー8世と盟約を結んでナポリへ侵攻したが、ジェノヴァが離反したため遠征は失敗に終わった。フランスの形勢が悪化すると教皇クレメンス10世はカール5世と講和を結び、イングランド王ヘンリー8世もフランスを見離し始める。1529年にカンブレーの和が結ばれ、フランスはイタリアにおける権益を放棄させられた。イタリアにおける覇権を確立したカール5世は、1530年にボローニャにおいて教皇の手による皇帝戴冠式を挙行し、彼が教皇による戴冠を受けた最後の皇帝となった。
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