カール5世のネーデルラント政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 15:36 UTC 版)
「オランダの歴史」の記事における「カール5世のネーデルラント政策」の解説
マクシミリアンとマリーの孫で自らもネーデルラントで生まれ育った神聖ローマ皇帝カール5世は、ネーデルラント17州すべての主権者として専制政治を行い、カール5世退位後にハプスブルク領がオーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家に分割されると、ネーデルラントはスペインの支配下に入った。 また、1530年代には再洗礼派がネーデルラントに流入し、アムステルダムを中心に勢力を伸ばした。1534年にはヤン・マティスを指導者として再洗礼派がアムステルダムを掌握、さらに再洗礼派にはヤン・ベーケルスゾンが指導者として加わり、ミュンスターを中心とした「ミュンスター千年王国」を建設したが、1535年にはプロテスタント諸侯とカトリック諸侯の連合軍によってミュンスターは陥落した。 1545年、カール5世はネーデルラント諸州に異端審問官を設置、1550年にはこれらの異端審問官を皇帝直属機関とした。しかしこうした政策は主に経済面への悪影響を懸念するネーデルラント各都市からの反発を受けたため、カール5世によるプロテスタントへの圧力は弱まった。一方、1540年代にはカルヴァン派もネーデルラントに流入し、都市部の商人や手工業者を中心に勢力を広げた。 このように、カール5世のネーデルラント政策はプロテスタントへの弾圧が目立つものであったが、一方でネーデルラント諸州が政治的一体性を持ち、また「ネーデルラント」としての統一的なアイデンティティを獲得し始めた時期にも相当する。
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