カール4世との協調、自領の拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 02:15 UTC 版)
「ボルコ2世マウィ」の記事における「カール4世との協調、自領の拡大」の解説
カール4世との政治上の親密な協力関係は、ボルコ2世にかなりの利益をもたらし、領土拡張の面では大いに恩恵を受けることになった。領内の経済的繁栄を背景に、ボルコ2世は財政難に悩むシロンスクの他の諸公から多くの領土を買い取った。1358年にはレグニツァ公ヴァツワフ1世から、ズウォティ・ストクの金鉱、ブジェクの半分とオワヴァを購入した。その直後、シチナヴァ公ヤンからシチナヴァの半分を買い取っている。1359年、皇帝はボルコ2世にフリードラントを含むボヘミアの国境地域を購入することを許可した。同年、ボルコ2世はチェシン公プシェミスワフ1世ノシャクからシェヴィエシュを2300グジヴナで買った。翌1360年にはケンティ・ヴロツワフスキェを購入した。 またこの年、カール4世とボルコ2世の良好な関係が功を奏し、グウォグフ公プシェムコ2世の未亡人として30年近くを過ごしたボルコ2世の妹コンスタンツィアが、ボヘミアに支配されていたグウォグフ半国の領有を認められた(もう半分はジャガン公が1349年に獲得していた)。1361年、既に修道女となっていたコンスタンツィアは、グウォグフ半国を兄ボルコ2世に譲渡した。皇帝はいずれ領地を取り戻せるはずだったため、彼がグウォグフを獲得するのを望んだ。 ボルコ2世にとって破格の不動産となったのは、1364年4月14日に銀2万1000グジヴナという大枚をはたいて皇帝から買い取ったラウジッツ(ルサティア)近郊の大都市及び周辺の領地である。この領地はボルコ2世の持つ財産の中でも最も重要かつ高級なものだった。 同年、ボルコ2世はクラクフ会議に主賓の君主の1人として招かれた。公爵はそこで、ポーランド王カジミェシュ3世が主人役を務め、ハンガリー王ラヨシュ1世、デンマーク王ヴァルデマー3世、キプロス王ピエール1世、オポーレ公ヴワディスワフ、スウプスク公ボグスワフ5世らが出席した高名な「ヴィエルジネクの祝宴」に参加している。 1368年7月28日、56歳で亡くなり、グリュッサウ修道院に埋葬された。ボルコ2世はヴワディスワフ2世(亡命公)を始祖とするシロンスク諸公の中で、最後の独立諸公となった。公国は妻アグネスが1392年に死ぬまで管理したが、その後はカール4世とボルコの姪アンナとの間に生まれたローマ王ヴェンツェルによって、ボヘミア王国に併合された。
※この「カール4世との協調、自領の拡大」の解説は、「ボルコ2世マウィ」の解説の一部です。
「カール4世との協調、自領の拡大」を含む「ボルコ2世マウィ」の記事については、「ボルコ2世マウィ」の概要を参照ください。
- カール4世との協調、自領の拡大のページへのリンク