カール1世との対決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/17 03:02 UTC 版)
「デシデリウス (ランゴバルド王)」の記事における「カール1世との対決」の解説
771年、フランク王国で王権を分担していたカールマンが没したことが、ランゴバルド王国とフランク王国の関係を変化させた。というのもカールマンの未亡人ゲルベルガと2人の息子、それに数人の側近たちがデシデリウスのもとに身を寄せたからである。『教皇の書』が伝えるところによれば、彼らはカール1世に吸収された王国の継承権を主張していた。ただ歴史家のロジャー・コリンズによれば、このカールマンの家族の主張も、教皇がフランク王国をランゴバルド王国と敵対させるために流した偽情報であった可能性があるという。デシデリウスはこの遺族を対フランク政策に利用しようとしたが、カール1世は妻をランゴバルド王国へ送り返し、ここに両王の友好関係は終わりを告げた。代わりにカール1世はかつてカールマン領だったアレマンニアの大公家の血を引くヒルデガルト(英語版)を妻に迎えることで、カールマン系の正統性を利用とするデシデリウスの意図を挫こうとした。 ステファヌス3世の死後、ハドリアヌス1世が教皇となると、デシデリウスは新教皇が聖別を終えたばかりのところへ友好協約を結ぶよう強要した。ハドリアヌス1世はデシデリウスが領土返還の約束を履行することを条件としたが、デシデリウスはこれを無視して教皇庁との和平を破棄し、ラヴェンナを包囲した。対するハドリアヌス3世は、ランゴバルド・フランク同盟を崩して政治的環境を覆そうと図った。デシデリウスはカールマンの遺児を塗油し、これがカールマンの後継者であると宣言するようハドリアヌス1世に迫ったが、ハドリアヌス1世はこれを拒否した。両王国を天秤にかけた末、ハドリアヌス1世はデシデリウスと手を切る方針を取った。773年、教皇ハドリアヌス1世は公にデシデリウスとの断交を宣言した。デシデリウスが報復として教皇領の都市を攻める動きを見せると、ハドリアヌス1世はカール1世に助けを求めて抵抗を図った。ランゴバルド軍がアルプス山脈を封鎖したので、ハドリアヌス1世は海から使節を送り出した。彼らの任務は、カール大帝に自分が教皇庁の守護者であることを思い起こさせることであった。デシデリウスに教皇領を攻撃させ、フランク王国に助けを求めるというのはみな彼の計画の内であった。要請を受けたカール1世は、教皇側に立つことを決めた。
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