イエズス会に入会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 07:03 UTC 版)
「フランシスコ・ボルハ」の記事における「イエズス会に入会」の解説
1546年5月27日に妻が死ぬと、フランシスコは世俗の生活を捨てて修道者となる事を決意し、イエズス会への入会を願った。公爵としての立場上すぐに決意を公表出来ないため、6月2日に秘密裡に入会した彼はロヨラと相談の上できちんと身辺整理をし、神学の勉強に専念しつつ普段の生活もこなし、1548年に正式に入会宣言したのを手始めに長男カルロスを貴族の女性と結婚させ、他の子供達の進路と縁組も纏めた。イエズス会最初の大学としてガンディア大学(スペイン語版)設立にこぎ着け、貧しい学生への奨学金・住居提供とムーア人やユダヤ人への教育支援もカトリックへの改宗を期待した上で与えた。 1550年に次男フアン(英語版)と従者を連れてローマを訪問、行く先々で熱烈な歓迎を受けた後にスペインへ戻った。そして翌1551年5月23日、聖職者叙階で司祭となり、カール5世の了解を取り付けた上でガンディア公位をカルロスへ譲り、自らは聖職者として第2の人生を歩み出した。なおローマ訪問の時、イエズス会士養成機関でありロヨラが創設したローマ学院(またはコッレギウム・ロマヌム、現在のグレゴリアン大学)へ私財を寄付、財政面での支援者となった。 フランシスコは高貴な一族の出身で、有能であり、ヨーロッパ中にその名が知れ渡っていた為、1552年に教皇ユリウス3世から枢機卿の授与が打診されたがこれを拒み、無名の巡回説教師として生きたいと望んだ。だが、もって生まれたリーダーとしての資質は隠せず、周りの人々は彼に指導的立場に立つよう求めた。1553年、かつて仕えていたポルトガル王妃カタリナとジョアン3世の要請で王宮説教師に迎えられ、翌1554年と1555年の2度にわたり、トルデシリャスに幽閉中のフアナの看護に尽くした。また1554年、フランシスコはロヨラの指示でスペインとポルトガルでの総長代理となり、多くの学校と修練院を開設しイエズス会普及に尽力した一方、王太子と妹でスペイン摂政フアナからの信頼も獲得、教皇パウルス4世とカール5世の対立で板挟みに苦しみ、1556年のロヨラ死去に伴うイエズス会の危機、同年のカール5世の退位など問題が重なったが、1558年に第2代総長ディエゴ・ライネスが選出、ユステ修道院へ隠遁したカール5世から変わらぬ信頼を保ち、引き続きスペイン・ポルトガルの活動に邁進していった。 1558年に死去したカール5世の臨終に立ち会い、遺言執行人に指名され追悼演説も行い、順調に進んだかに見えたフランシスコの人生は翌1559年になると暗転した。これはスペインの度が過ぎた国粋主義と異端審問のイエズス会に対する反感が原因であり、かつて親交のあったアラオスもフランシスコがスペインの総長代理になったことに怒り、スペイン宮廷に取り入り国粋主義を煽ったためフランシスコとヘロニモ・ナダール(英語版)はスペイン王に即位したフェリペ2世のスペイン人イエズス会士の出国禁止などの理不尽な命令や異端審問の弾圧に苦しめられた。1548年と1550年に書いたフランシスコの信仰に関する本は異端審問所により禁書目録に挙げられた上焚書にされ、異端審問所に監禁されたトレド大司教バルトロメ・カランサ(英語版)に同情したことも災いし、身の危険を感じたフランシスコは一旦ポルトガルへ亡命、2年後の1561年に教皇ピウス4世からフランシスコのローマへの召喚命令を受け取っていたライネスの要請を口実にローマへ亡命した。
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