イエズス会の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:07 UTC 版)
イエズス会は当初から世界各地での宣教活動を重視し、優秀な宣教師たちを積極的に派遣した。最も有名な宣教師はフランシスコ・ザビエルである。彼は西インド植民地の高級官吏たちの霊的指導者になってほしいというポルトガル王の要請にしたがって1541年にインドのゴアへ赴いた(ゴアはアジアにおけるイエズス会の重要な根拠地となり、イエズス会が禁止になった1759年までイエズス会員たちが滞在していた)。ザビエルはインドで多くの信徒を獲得し、マラッカで出会った日本人ヤジローの話から日本とその文化に興味を覚えて1549年に来日。2年滞在して困難な宣教活動に従事した(→ #日本での活動)。彼は日本人へ精神的影響を与えるために中国の宣教が不可欠という結論にたどりつき、中国本土への入国を志したが、果たせずに逝去した。16世紀のイエズス会士たちは中国と日本への宣教の拠点としてマカオを利用した。 アメリカ大陸におけるイエズス会の宣教活動はヨーロッパ諸国(特に広大な植民地を保持していたスペインとポルトガル)の利害とかかわってしまったため、内政干渉という口実でさまざまな議論を巻き起こすことになった。ドミニコ会やイエズス会は主として当時のアメリカ大陸でネイティブ・アメリカンの権利を主張し、奴隷制に抗議していたからである。イエズス会員はキリスト教徒になったインディオを他部族やヨーロッパの奴隷商人の襲撃から守るためブラジルとパラグアイに「保護統治地」(Reducciones) をつくった。インディオを保護しようとするイエズス会員はスペインとポルトガルの奴隷商人およびそこから利権を得る政府高官にとって目障りであったため、のちにポルトガルからイエズス会への迫害が始まることになる。 「キリスト教の奴隷制度に対する見解」も参照 マヌエル・ダ・ノブレガ(英語版) (Manoel da Nóbrega) やジョゼ・デ・アンシエタ (José de Anchieta) は16世紀のブラジルでインディオ相手に宣教・教育事業を行いながら、いくつもの街をつくった。その中にはサンパウロ、リオデジャネイロなどのちに大都市になったものも含まれている。17世紀にはエウセビオ・キノがヌエバ・エスパーニャ北部のソノラ砂漠に、「砂漠の白い鳩」と呼ばれその美しさが称えられているアリゾナ州ツーソン近郊の聖ザビエル伝道教会などの多くの伝道所を設立した。またエウセビオ・キノは当時島だと信じられていたバハ・カリフォルニアが、半島であることを証明した。 中国におけるイエズス会の活動は典礼論争を生むことになり、後に問題の本質から離れてイエズス会への政治的攻撃の道具とされた。また、ヨハネス・グリューベル (Johannes Gruber) とアルベール・ドルヴィル (Albert d'Orville) は1661年に北京から青海湖を経てラサにたどりつき、同地に滞在後、カトマンズからアグラにいたった。彼らは初めてチベットの実情をヨーロッパに伝えたことで知られている。 宣教地で働くイエズス会員たちはその土地の文化や言語の学術的研究をすすめ、ヨーロッパに紹介した。たとえば1603年に発行された日葡辞書 (Vocabvlario da Lingoa de Iapam) は非常に画期的かつ浩瀚な内容で、現代においても17世紀の日本語の貴重な研究資料になっている。ほかにも南米ではトゥピ・グアラニ語辞典などもつくられている。
※この「イエズス会の発展」の解説は、「イエズス会」の解説の一部です。
「イエズス会の発展」を含む「イエズス会」の記事については、「イエズス会」の概要を参照ください。
- イエズス会の発展のページへのリンク