イエズス会学校
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ザグレブ大学の前身となる学校は1669年に創設された。17世紀のクロアチア地方はオーストリア(ハプスブルク君主国)の支配下にあるハンガリー王国の領内であり、当時神聖ローマ皇帝にしてハンガリー王であったハプスブルク家のレオポルト1世によって統治されていた。1669年9月23日、レオポルト1世が王領自治市であるザグレブでのイエズス会学校の設立を認可する法令を発布し、これを受けてザグレブ大学の前身となるイエズス会学校が設立された。この学校での哲学研究はネオアカデミア・ザグラビエンシス(ラテン語: Neoacademia Zagrabiensis, 「ザグレブの新学校」の意)として正式かつ法的な地位を獲得し、学校も公式な高等教育機関となった。 学校はイエズス会員らによって運営され、この体制はイエズス会が1773年に教皇クレメンス14世によって解散されるまで1世紀以上続いた。1772年に新体制が執行された時点での学生数は約200人であった。 1776年、ハンガリー王位を継承したマリア・テレジアにより王立科学学校(ラテン語: Regia Scientiarum Academia)の設立認可が発布された。この学校は哲学、神学、法学の3学部から構成されており、それまでの政治行政学 (political-cameral) は新設された法学部の一部として取り込まれた。各学部には単一もしくは複数の学科を受け持つ教授が複数名配置された。 学校は組織の変更を複数回経ながらも、クロアチアのインテリゲンツィア(知識人層)の大多数を教育するクロアチアの中心的な高等教育機関として1874年まで存続した。
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