ツヴィの改宗、および死後に派生した教派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 00:49 UTC 版)
「シャブタイ派」の記事における「ツヴィの改宗、および死後に派生した教派」の解説
ツヴィの改宗と死はシャブタイ派を骨抜きにしてしまった。信奉者の多くは彼に対する信仰を放棄してユダヤ教の伝統に立ち返った。しかし、後戻りできない頑迷な信奉者はヨーロッパから中近東の各地に集結し、シャブタイ派の残党として活動を継続させていた。とくにバルカン半島とアナトリア半島での信仰は根強く、ある者は公然と、ある者は秘密裏に救済の訪れを待っていた。 もっとも、シャブタイ派の間ではツヴィの改宗と死に関しての統一的な見解を見出せていなかった。それをカバラの神秘的な奥義として解釈するグループもあれば、改宗はおろか死さえをも否定するグループもあった。来るべき日に再び世に姿を現すという意見もあれば、ツヴィの魂は転生してすでに他の人間となって生まれ変わっていると考える者もいた。後にドンメ派の指導者となったバルキヤ・ロッソ(1677年〜1720年)や、フランク主義(フランキズム)の提唱者であるポーランドのヤコブ・フランク(1726年〜1791年)も、この時期にそれぞれの思想を固めていった。多くの信奉者はツヴィの再来を疑わなかったので、生まれ変わったツヴィが至高の光の中から姿を現す期日をさまざまな理論を用いて計算していた。また、ユダヤ民族には救済の最終段階において新しい律法が授与され、ツヴィが破棄した伝統的な律法に代わって適用されると信じられていたのだが、その日までに既存の律法には効力があるのか、あるいはすでに効力をなくしているのか、といったことが長らく議論されていた。 シャブタイ派の衰退が顕著になっていた1683年のこと、テッサロニキ在住のおよそ300名のユダヤ人がイスラム教に改宗した。シャブタイ・ツヴィの義父であったヨセフ・フィロソフを指導者とするこのグループは、ツヴィの時代にイスラム教に改宗したシャブタイ派の人々と深いつながりがあった。彼らはその後に誕生するドンメ派の黎明期における構成員となっており、テッサロニキの他にエディルネにも拠点を持っていた。このグループは最終的に三つの派閥に分離しているのだが、保守派から急進派にいたるまで、いずれもがバルキヤ・ロッソを指導者として崇め、シャブタイ・ツヴィに代わる新しい救世主とみなしていた。彼らの思想は共同体の枠を超えて各地に広がり、シャブタイ派の時代における熱狂をしのぐほどの勢いを見せた。ドンメ派から派生したグループはイタリアでも活動していた。彼らはマギ(呪術師)を立て、神から下される啓示に基づいて思想を形成していた。他のグループが極端なメシアニズムに傾倒するなか、彼らはむしろ黙示主義を前面に押し出していた。 18世紀にもなると、ユダヤ人社会のなかでさえシャブタイ派思想を受け継ぐ者はごく少数となっていた。ヨーロッパでは、ネヘミヤ・ヒヤ・ベン・モシェ・ハユン(1650年〜1730年)、ハイム・マルアフ、ゾルクワ出身のイツハク・カイダネル、アイゼンシュタット出身のモルデカイ・モキァハなどがシャブタイ派の新たな預言者、あるいは救世主として名前が上がったこともあるのだが、ラビや共同体の指導者は彼らに対して強硬な姿勢をとり、戦争さえも辞さなかった。シャブタイ派の時代に得た教訓のひとつとして、カバラと神秘主義の学習に一定の制限を設ける制度が確立した。また、ヴァアド・アルバア・アラツォト(1580年から1746年まで東欧四カ国のユダヤ人地区を統治していた行政機関)は、40歳になるまではカバラの学習を禁止し、それまでの間にタルムードとハラハーを習得するよう呼びかけた。 これらの制度が施行された後も、シャブタイ派に心を奪われていると思しき多くのラビに疑惑の目が向けられた。しかし彼らの多くは、伝統的な戒律の解禁などをイデオロギーに掲げていたかつてのシャブタイ派ではなく、敬虔主義を基盤にシャブタイ派の主題を織り交ぜた新しい思想を模索していた。ドイツやエルサレムで活動していたラビ・ヤアコブ・エムデン(1698年〜1776年)やラビ・モーシェ・ベン・ヤアコブ・ハギズ(1671年〜1750年)は、ユダヤ人迫害の口実となりかねないシャブタイ派に対する潜在的な恐怖心や強迫観念に後押しされ、シャブタイ派狩りを煽る書物を出版した。 エムデンによってシャブタイ派の信奉者と疑われた人物のひとりに、ドイツの重鎮ラビ・イェホナタン・アイベシュッツ(1690年〜1764年)がいた。エムデンの主張によれば、アイベシュッツはシャブタイ派の秘密のシンボルが記された治癒の護符を病人に配っていたという。両者の間に起きた論争は多くのラビを巻き込んだのだが、そのほとんどがアイベシュッツの人徳を信じて彼を擁護した。しかし今日では、ゲルショム・ショーレムらの調査によって、アイベシュッツをシャブタイ派の一員とするエムデンの主張にこそ妥当性があると認識されている。また、ラビ・モーシェ・ハギズが中心となってモーシェ・ハイム・ルツァットを相手に起こした有名な論争では、シャブタイ派と関わって預言者を自称したとしてルツァットが告訴された。対するルツァットは、カバラ神学の観点からシャブタイ派思想を論理的に考察した著書『キヌアト・アドナイ・ツェバオット』を上梓して対抗した。 エムデンも同様に、シャブタイ派の底流にあるカバラ思想の神学的な探求を試みた。その努力の末に執筆された『ミトパハト・セファリーム』では、『ゾハル』に基づいた古典的なカバラ思想の近代における有効性と信頼性について疑問を呈している。また、ラムバムが著作『迷える人々の為の導き』において、ユダヤ思想をアリストテレス哲学の概念を用いて説明したことを批判しつつ、シャブタイ派思想を哲学的に解明するには限界があると訴えている。 18世紀の半ばになると、当時はポーランド領、現在のウクライナにおいてヤコブ・フランクがフランク主義(フランキズム)を掲げて社会運動を起こしたため、これを機にシャブタイ派思想の再流行が見られた。フランクは自らがシャブタイ・ツヴィの生まれ変わりであると主張した。フランク主義者(フランキスト)の多くはユダヤ教の伝統的なモラルを無視して放蕩にふけり、シャブタイ派思想の本質的な部分をさらけ出していた。フランクも同様に仲間を集めて擬似家族と小規模な王国を作り、仲間内で近親相姦を繰り返していた。この運動は1759年に信奉者(フランキスト)たちが大勢キリスト教に改宗したことにより終焉を迎えているとされる。 19世紀になるとフランク主義(フランキズム)の沈静化と共に、シャブタイ派思想もヨーロッパにおいては活発な活動は行われていないように見える。ハシディズムの運動が盛り上がっていたころ、アビラー・レシェマー(神聖護持のために罪を犯すこと)に対する考え方がシャブタイ派の解釈に依存しているなど、ハシディズムに見られるシャブタイ派との共通点が敵対者に断罪されて論争が勃発したさい、数年間ほどシャブタイ派の名前が思い出されることがあった。 ハシディズムの教義には、シャブタイ派思想との類似が指摘されるのもやむを得ない箇所が確かにある。とくに顕著なのが、義の力を過大評価している点で、それによって世界を秩序立て、至高の世界との関係を保つとしているのだが、非常に現実主義的な観点から世俗世界の神聖化を論じているのである。実際、高名なハシディズムの宮廷(共同体)ではハラハーの細部を侮る傾向があり、実践するよりも志向することが重要であると説かれていた。もっとも、反対派の思惑とは裏腹に、ハシディズムは時流にかなった思想としてユダヤ教に取り込まれた。現在ではハシディズムに対する非難はほとんど見られない。 カバラ研究の権威でヘブライ大学教授のイェフダ・リベスは、ハシディズムの反対者であったラビ・エリヤフ・ベン・シュロモー・ザルマン(ヴィルナのガオン)の弟子、シクロウ出身のラビ・メナヘム・メンデルの著書を多数研究したのだが、そこにはシャブタイ派とシャブタイ・ツヴィに対する愛憎入り混じった複雑な感情が散見できるとしている。また、ヴィルナで活躍していたシャブタイ派のカバリスト、ラビ・ヘエシル・ツォレフとシャブタイ・ツヴィを暗示する多数のゲマトリアを発見した。それらを解読したところ、メンデルがツヴィを真の救世主であると考えていたことが分かった。メンデルは、もしツヴィの強欲な性格や尊大な態度がなかったならば、彼は間違いなく救世主としてユダヤ人に歓迎されたはずであったと悔やんでいた。しかし、それが叶わなかったにしても、ツヴィの活動はユダヤ人救済のために敷かれる道筋において必要不可欠な構成要素であったと結論づけている。また、メンデルの著書からは、フランク主義者がラビ・エリヤフ・ザルマンのことを、(彼がシャブタイ派の敵対者であったにかかわらず)信頼すべき霊的指導者として認めていたことも分かった。
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