フランク主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/10 18:53 UTC 版)
ヤアコブ・フランクはポジーリャ(当時はポーランド・リトアニア共和国領)でシャブタイ派の信奉者の家庭に生まれた。12歳で商家へ奉公に出ると東欧からアナトリア半島を巡り、1752年から1755年にかけてはかつてシャブタイ派の聖地であり当時も残党の多かったスミルナ、および同派から派生したドンメ派の中心地であったテッサロニキに滞在している。この間に、自らが救世主であるシャブタイ・ツヴィの生まれ変わりであると主張するようになった。1755年にポーランドに戻るとメシアニズム思想(フランク主義)を信奉する大規模な組織を設立し、多くのユダヤ人を取り込んだ。しかし、1756年のシュバットの月の26日にガリツィアのランツクロンで退廃的な集会を催したことにより同地を追われ、オスマン帝国へ逃亡した。信奉者らはラビによる裁判にかけられ、性的乱交、月経中の女性との性交、安息日の軽視などを告白したが、改心の意思がないためにヘーレムが科された。翌1757年にはヤアコブ・フランクも信奉者らとブロディに戻ったところで同地のラビにヘーレムを宣告されてカームヤネツィ=ポジーリシクィイへ逃亡した。ここでは反ユダヤ主義者で知られていた主教のニコラウス・デンボウスキーの庇護を受けると、同年のタムーズの月の2日から8日間にわたって開催された正統派ユダヤ教徒とフランク主義者の討論会において、フランク主義はキリスト教に通底していると認められた。この結果、ポリージャではタルムードが焚書に処されている。いくつかの資料では、この前にヤアコブ・フランクは数人の信奉者らとオスマン帝国に脱出し、ここでイスラム教に改宗したとされている。さらに2年後の1759年には再びポーランドに戻って今度はキリスト教に改宗し、キリスト教徒としてその生涯を終えた。
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