フランク人の植民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 05:30 UTC 版)
フランク王国の建設は、一般に人口史において「フランク人の植民」と呼ばれる出来事を伴っていた。いわゆる民族移動時代にローマ領へ移住した他のゲルマン諸部族と比べ、フランク人たちの移動距離は短く、ライン川とヴェーザー川の間にあった本来の居住地との繋がりを維持していた。学者の中には、これが他のゲルマン諸王国に比べフランク王国が強力であった理由の一つであると見做す者もいる。 クロヴィス1世による北部ガリア制圧と並行して、かなりの数の農民が征服地に移住した。しかし、実際にどの程度の規模で、どの範囲に移住が行われたのかを知るのは困難である。地名学と考古学による分析によれば、フランク人の定住密度は、セーヌ川までが中心であり、セーヌ川とロワール川の間の地域では少数であった。ロワール川以南(南部ガリア)へは、支配者として赴任した者以外、ほぼ移住は行われなかったと考えられる。移住が集中したガリア北部においても、現地のガロ・ローマ人に比べ、その人口は約4分の1あまりであったと考えられている。
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