フランク人支配下のアルプス・スラヴ人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 05:07 UTC 版)
「スロベニア人」の記事における「フランク人支配下のアルプス・スラヴ人」の解説
東方から侵入したテュルク系とされるアヴァール人に圧迫され、カランタニア公国は745年にバイエルンとの連合を受け入れ、後にフランク人支配を認め、8世紀からはキリスト教の受容が始まった。最後まで独立を保っていたプリビナとその子コツェリ(Koceľ)が支配したバラトン公国(パンノニア公国)は874年に独立を失った。その後、アルプス・スラヴ人(南スラヴ人の一派)の居住域は、ドイツ人(バイエルン人、オーストリア人)やマジャル人(ハンガリー人)の流入によって圧迫されて縮小し、現在の位置に落ち着いたのは15世紀のことであった。その間にドイツ系とマジャル系とイタリア系と混血を繰り返し、現在におよぶ「スロベニア人」が形成された。
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