ゲルマン諸王国
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ヨーロッパのゲルマン諸王国ではカトリックへの改宗が進んだ。496年にはメロヴィング朝フランク王国のクローヴィス1世が、またイタリアのランゴバルド王国、587年にはイスパニアの西ゴート王国がカトリックへ改宗し、キリスト教国家となった。 西ゴート王国 589年の第3回トレド公会議に西ゴート王国はアリウス派からカトリックに改宗したほか、ユダヤ人がキリスト教徒の奴隷や妻を持つことが禁止された。612年、シセブート王がユダヤ人にキリスト教の洗礼を強制したうえ、第4回トレド公会議では改宗したユダヤ人に訴訟を禁止した。第6回トレド公会議(639年)でユダヤ教儀礼を禁止する誓約書を提出されるキンティラ王の政策を追認し、第8回会議(653年)で西ゴート法典でユダヤ教の宗教儀礼を禁止した。680年の第12回トレド公会議でエルウィック王の反ユダヤ法が承認されてユダヤ人の強制改宗が法的に定められ、違反者は追放、奴隷や財産の没収が課せられた。 693年、エギカ王が前王の勢力の陰謀に対して第16回トレド公会議で陰謀に加担した大司教や貴族の財産没収を命じるとともに、キリスト教に改宗しないユダヤ人の財産没収を命じ、西ゴート法典にも記された。第17回トレド公会議(694年)でエギカ王はユダヤ人による王国転覆計画が発覚したと告発し、司教たちは「ヒスパニアのユダヤ人を全員奴隷とする」と議決した。 フランク王国 フランク王国では6世紀に、王の御用商人ユダヤ教徒プリスクスなどのユダヤ商人が地中海交易で活躍した。 636年、東ローマ皇帝ヘラクレイオスがイスラム勢力のアラブ人に敗北すると、占星術で「キリスト教王国は割礼をほどこされた民(イスラム教徒アラブ人、ユダヤ教徒)に滅ぼされる」との予言が出された。ヘラクレイオスから予言を伝えられたメロヴィング朝フランク王ダゴベルト1世は、王国内のユダヤ教徒に即時改宗か国外退去を命じた。 カロリング朝でもユダヤ人大商人が活躍し、カロリング時代には「ユダヤ人」と「商人」は同義語だった。王室の庇護を受けたユダヤ人はキリスト教共同体に対して改宗活動を展開したが、これにキリスト教聖職者は反発した。 8世紀初め、ウマイヤ朝が西ゴート王国を滅ぼしてフランク王国を征服しようとした時、ユダヤ教徒がイスラムに手を貸したとキリスト教側の記録に記されている。 732年にメロヴィング朝フランク王国の宮宰カール・マルテルによってウマイヤ朝の進撃が食い止められた後、ポワチエでの定住がユダヤ人に許可され、東方交易に従事した。 759年にサラセン人に占領されていた南フランスのナルボンヌを奪回したピピン3世は、武器を援助したユダヤ人にナルボンヌの3分の1に当たる領地へ居住することや、ユダヤ共同体の代表が「ユダヤの王」を名乗ることを許可した。 『サリカ法典』の8世紀写本の序文では、ゲルマン系のフランク族について「神自らつくりたもうた高名な人種、軍事に強く、結束にゆるぎなく、思慮深く、たぐいまれな美しさと白さを持ち、高貴で健康的な身体をもち、勇敢で俊敏な、恐るべき人種」と書かれた。 カール大帝(在位:768年 - 814年)はキリスト教への改宗を国民に強制したが、ユダヤ人は「聖書の民」であるために信仰が許可された。また、ユダヤ人は自由通商貿易を許可され、ユダヤ共同体内での裁判権も許可された。カール大帝は797年にアッバース朝へユダヤ人イツハクを派遣した。カールはイタリアからユダヤ人商人を招いてライン川・モーゼル川流域に住まわせ、シュバイヤー、ヴォルムス、マインツに三大ユダヤ共同体が成立し、ボンやケルンにもユダヤ植民地が築かれた。また、カールはバビロニアのマヒールをナルボンヌに招き「ユダヤの王」称号を名乗ることやイェシーバーを開設することを許可した。 イスラム教とキリスト教の境界が確定して以降、キリスト教世界にとって東方との交易が難しくなったため、ユダヤ人商人が東方交易に乗り出し、ペルシャ、インド、中国まで進出した。 9世紀前半のリヨンではユダヤ人が宮殿に出入りしたり、徴税官になったり、奴隷を所有することもあった。皇帝ルートヴィヒ1世(ルイ1世)はユダヤ教徒に改宗運動を許可し、839年に宮廷助祭ボード (Bodo) がユダヤ教に改宗した。リヨン大司教アゴバール(778-840年)はルイ1世にユダヤ人による改宗運動の禁止を訴えたが、王はユダヤ行政官エヴラ−ルを派遣してユダヤ人の特権維持を宣言し、追放されたアゴバールはユダヤ人の勢力拡大を嘆いた。 ユダヤ人がフランク王国の宮廷や貿易で活躍する一方、反ユダヤ主義も展開していった。843年のヴェルダン条約で王国が三分割された後、848年にヴァイキングのデーン人が西フランク王国のボルドーを襲撃した時には、ユダヤ人が裏切ったとされた。860年頃、リヨン大司教アモロンはユダヤ教の「感染」からキリスト教教徒を守るため、ユダヤ人の食べ物や飲み物を口にすることを禁じ、876年にはサンスのユダヤ教徒が修道女と関係を持ったとして追放された。 古代・中世ヨーロッパのキリスト教国家以外では、コーカサス・黒海地域に成立したトルコ系のハザール王国で8世紀に国王と高官がユダヤ教に改宗した。960年にはコルドバのラビ・ハスダイ・イブン・シャープルートがユダヤ教復興に期待し、ハザール王国に書簡を送った。
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