シャブタイ派の衰退とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > シャブタイ派の衰退の意味・解説 

シャブタイ派の衰退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 14:41 UTC 版)

シャブタイ・ツヴィ」の記事における「シャブタイ派の衰退」の解説

シャブタイ・ツヴィイスラム教への改宗という知らせは、各地ユダヤ人社会計り知れない打撃与えた多く信奉者救世主ふがいなさ絶望して思想放棄し、ある者はイスラム教に、またある者はキリスト教改宗するなどしてユダヤ教との決別図ったまた、この悪夢早急に払拭たいがため信奉者団体所有していたツヴィ関連する文書廃棄焼却されたり、「シャブタイ・ツヴィ」という名前を文書記録することが禁じられたりするようになった東欧では同様のメシア騒動繰り返されないよう、ヴァアド・アルバア・アラツォト(1580年から1746年まで東欧四か国のユダヤ人地区統治してた行機関)によってカバラ学習制限設けられタルムードハラハー熟達した者にのみ、カバラ指導資格得られるよう制度改められた。 一方中近東バルカン半島では依然として頑迷な信奉者シャブタイ派教義守っていた。ツヴィ改宗きっかけシャブタイ派対す迫害はじまったのだが、その過程においてガザでは紛争引き起こされたりもした。ナタンツヴィ改宗知れ渡る信奉者団体弱体化を防ぐためにガザからイズミール向かった1667年1月下旬ユダヤ暦5427年のシュバットの月の初旬)、苦労してイズミール近郊にまで到達したものの、事前にその情報察知した地元ラビに道を阻まれ、数週間立ち往生する羽目にあった。 ようやく入城許可されるナタンすぐさま信奉者集めシャブタイ派思想堅持懸命に訴えたツヴィ改宗については、ハアラアト・ハ=ニツォツォットのために一時的にイスラム教徒落ちぶれ、ケリフォトの世界潜行しているに過ぎない説明した。数か月後、ナタンエディルネ赴いてツヴィとの接触試みようとしたのだが、ここでも入城拒否された。そのままトラキア小アジアバルカン地方などを放浪して最後にイタリアにたどり着き、ここに新たな拠点築いた一方ツヴィは妻のサラと共にエディルネにて悠々自適の生活を送っており、彼を追ってイスラム教改宗した大勢弟子従えていた。1667年にはサラとの間に最初息子もうけており、イシュマエル・モルデカイと名づけている。不可解な日常は相変わらずで、ユダヤ教ともイスラム教ともつかない独自の流儀による生活を営んでいた。一見したところ模範的なイスラム教徒として振舞っていたのだが、未改宗シャブタイ派信奉者との連絡密に保っており、書簡において自身改宗をケリフォトへの潜行とあると釈明しつつ、それをカバラ秘儀であると説いていた。1669年ナタン再度ツヴィに会うためにエディルネ現れたのだが、今度合流成功したツヴィナタンと共にエディルネコンスタンティノープルテッサロニキなどに残るシャブタイ派信奉者共同体訪れ自身先頭街頭パレード実施したり、各地シナゴーグユダヤ教ともイスラム教ともつかない奇妙な式典を催すなどしていた。 1672年8月ツヴィ弟子と共にコンスタンティノープル入城し我流儀式公衆面前繰り返していた。同年9月の上旬、とあるシナゴーグにて祈祷行っていたときのこと、ついに当局によってイスラム対す背信の罪で身柄拘束されオスマン帝国軍儀礼兵の監視のもとエディルネ送還された。そこで4か月勾留された後、アルバニアウルチニ(現在はモンテネグロ領)に流刑されることになった。 そこでも再びツヴィまつわるスキャンダル話題になった。彼はコンスタンティノープル出身若い女性を妻に娶ったのだが、彼女に婚約者がおり、結婚直後になってその婚約者との間にできた子供出産したのであるツヴィ近親者ひとりで信奉者まとめ役でもあったアブラハム・ハ=ヤキニは、当惑する弟子たちに対して、これは弟子たち本当にツヴィ信じ続けるのかを見極めるためになされた神の試みであり、事件そのものには何の意味もないと説明していた。それからしばらくすると、ツヴィは、後にドンメ派(イスラム教シャブタイ派)の創始者となるテッサロニキのヨセフ・フィロソフの娘をも妻として迎え入れたこのころにはバルカン半島イタリア支援者との関係がより緊密になり、多く生徒ツヴィのもとを訪れて直々に教え学んでいた。シャブタイ派神聖な教義収録したカバラ書物『ラザ・デ=メヘマヌータ』は、当時ツヴィ口伝をアブラハム・ミグエル・カルドソ(1630年 - 1706年)という人物成文化したものとされている。しかし、カバラ研究権威ヘブライ大学教授のイェフダ・リベスによれば同書いわゆる偽典」で、実際にカルドソ本人による著作であるとしている。 ユダヤ暦5437年の大贖罪日1676年9月19日)のこと、テヒラト・ネイラー(大贖罪日最後祈り)を終えたところでツヴィ息を引き取った50であったツヴィ訃報を知るとナタン信奉者に対して布告出しツヴィ死んだではなく至高の光に照らされて姿が見えなくなった過ぎず必ずも一度姿を現しイスラエル解放してくれると説いた。しかし、そのナタンツヴィの死をきっかけ精神病むようになり、最後までシャブタイ・ツヴィこそが救世主であると信じながら、1680年マケドニアスコピエ死んだシャブタイ派思想は、東欧では18世紀中葉まで、ときに密かに、ときに公然とカバリストの間で語り継がれていた。そのころポーランド台頭していたフランク主義が、しばらく息を潜めていたシャブタイ派歴史表舞台引きずり出したこともあった。しかし、フランク主義者の多くキリスト教改宗したころにはヨーロッパでシャブタイ派活動は完全に息絶えていた。バルカン半島小アジアイタリアなどでかろうじて守られていた共同体19世紀待たずして崩壊してしまった。一方シャブタイ派思想中心的な主題であった「アビラー・レシェマー」や「ハアラアト・ハ=ニツォツォット」といった概念は命をとりとめ後代起きたカバラ論争においてしばしば用いられていた。 ツヴィと共にイスラム教改宗した弟子たちツヴィ死後オスマン帝国とどまった。彼らの子孫はドンメ派の設立かかわっているのだが、その伝統は今日まで受け継がれている。

※この「シャブタイ派の衰退」の解説は、「シャブタイ・ツヴィ」の解説の一部です。
「シャブタイ派の衰退」を含む「シャブタイ・ツヴィ」の記事については、「シャブタイ・ツヴィ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「シャブタイ派の衰退」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「シャブタイ派の衰退」の関連用語

シャブタイ派の衰退のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



シャブタイ派の衰退のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのシャブタイ・ツヴィ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS