シャブタイ派の興隆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 14:41 UTC 版)
「シャブタイ・ツヴィ」の記事における「シャブタイ派の興隆」の解説
ツヴィはエルサレムに戻ったものの、前回とは打って変わって、かつての共鳴者も含めたユダヤ人社会全体から拒絶されてしまった。町の道化師は、「シャリァハ(使者)を送ったのに帰ってきたのはマシァハ(救世主)だった」と言ってツヴィをからかったりしていた。また、ツヴィがシャダルの任務を放棄してエジプトからガザに向かったことに絡んで、会衆の代表者はエジプトで集めた資金を横領した嫌疑でツヴィを訴え、カディ(イスラム法の裁判官)の前に引き出した。しかし、幸運にも担当したカディがツヴィの弁明を全面的に受け入れてくれたため、すぐさま釈放される運びとなった。シャブタイ派の伝承によれば、釈放されたときツヴィは馬にまたがっており、そのまま凱旋パレードよろしくエルサレムの通りを練り歩いたとされている。ちなみに、当時のエルサレムではユダヤ人が市街地で馬に乗ることは禁じられていた。それからしばらくすると、ツヴィのスキャンダラスな日常が非難されるようになった。この件を先頭に立って対処したのはラビ・ヤアコブ・ハギズ(1620年 - 1674年)とカバリストのラビ・ヤアコブ・ツェマフ(1570年 - 1645年)だったのだが、彼らが最終的に下した判断は、ツヴィに破門を言い渡すというものであった。こうして、ようやく一定の支持層を獲得したにもかかわらず、エルサレムを離れざるを得なくなってしまった。ツヴィは再び故郷のイズミールへと向かった。その途上、ツファット、ダマスコ、アレッポを経由したのだが、アレッポでは数か月間も滞在し、有力なラビからの支援を受けることもできた。 一方、ナタンは書簡を通じてユダヤ人社会全体にシャブタイ・ツヴィの活動を伝えていたのだが、救世主到来の吉報はイエメン、ペルシア、地中海沿岸地方、北アフリカ、ヨーロッパ全土など各地で熱烈に歓迎され、にわかにメシア待望論が湧き上がった。しかも当時は、シャブタイ派に対する否定的な論調は皆無に等しかったのである。シャブタイ・ツヴィを救世主とする急進的な思想がかくも性急にユダヤ人社会に受容された理由に関して、歴史家のツヴィ・グレーツは、1648年から1649年にかけて東欧で起きたフメリニツキーの乱(ウクライナ・コサックによるユダヤ人虐殺事件)の影響を指摘している。この混乱を体験した東欧のユダヤ人は、当時の状況を「ヘヴレー・マシァハ」(救世主が現れる前に起きる苦難)であると確信し、救済の日が近いことを疑わなかった。これに対してゲルショム・ショーレムは、シャブタイ派の世界的な流行は、彼が現れる以前に普及したイツハク・ルリアのカバラによってメシア待望の下地が潜在的に形成されていたからであると述べている。 そのころキリスト教社会などの非ユダヤ教社会では、シャブタイ・ツヴィと彼によってもたらされる救済についての見聞が新聞などを通じて伝えられていた。だが、そのほとんどは噂の域を出ないものばかりで、シャブタイ派が引き起こす戦乱と勝利、エルサレムの征服、さらには失われた10支族の帰還といったものまでが話題に上っていた。このころになるとツヴィの支援者は、彼のことを「アミラー」(אמיר"ה)という称号で呼ぶようになっていた。アミラーとは「われらの主、われらの王、その栄光は称えられる」(אדוננו מלכנו ירום הודו)の略称で、イスラム教の初期のカリフに与えられていた称号「アミール・アル=ムウミニーン」に相当する。 パレスティナでは大勢のユダヤ人がガザに集まっていた。そこではナタンが訪れた者それぞれに対して魂の修復を施していた。ガザではじまった悔い改めの運動は過去に例を見ない大規模なものへと発展してパレスティナ全土を席巻し、ついには各地のユダヤ人社会にまで波及するようになった。「ティクン」と題されたパンフレットが大量に出回っていたのだが、そのパンフレットにはナタンの指示によって編集された嘆願の祈祷文も刷られていた。シャブタイ派の活動が安定期に入った数年後になると、かつて批判的だったラビまでもがシャブタイ・ツヴィに一抹の期待を寄せるようになっていた。一方、各地のユダヤ人は救世主の到来に備えて財産を売り払い、すべてのユダヤ人がエルサレムに導かれることを夢見ながら日夜、祈りと懺悔に没頭していた。 この運動に誘発されるかのように、アナトリア半島やバルカン半島では老若男女を問わず大勢の預言者が現れ、シャブタイ・ツヴィと救済の日についての預言を公衆の面前で堂々と訴えていた。こういったヒステリーを起こした者の数はイズミールだけでも150人を超えたそうで、預言者の中にはコンスタンティノープルのラビ・モーセ・セルヴァルといった著名なラビも含まれていた。セルヴァルの預言はオスマン帝国内のすべてのユダヤ人に知れ渡り、いよいよ終末の到来が迫っていることを自覚させた。その後も預言者の出現は後を絶たず、彼らは民衆に悔い改めの必要性を説きながら魂の修復を行っていた。 こうしてユダヤ人社会が救世主到来の歓喜に浮かれていたさなかの1665年9月、ツヴィはイズミールに凱旋し熱狂的な民衆、支援者に迎え入れられた。それから数か月の間は活動を控えて家にこもっていたのだが、1665年(ユダヤ暦5426年)のハヌカー祭を機に、王の扮装をして盛大なパレードを行ったり頻繁に預言を受けるなどして活動を活発化させた。イズミールのラビはツヴィの活動に対していかに対処すべきかを相談していた。ツヴィはそれを知ると、彼らの神経を逆なでするように同年のテヴェトの月の3日(1665年12月11日)の金曜日を祈りの日に定めると布告した。 その日、イズミールではシャブタイ派の信者と反対派の活動家との間で衝突が発生し、乱闘が起きる騒ぎになった。一部のラビがツヴィの暗殺を謀っているとの情報が漏れたことが原因であったとみられている。さらに翌日の安息日になると暴力事件は深刻な事態にまで拡大した。朝の祈りが終わった後、ツヴィは数百人の信者を引き連れてポルトガル系ユダヤ人地区のシナゴーグに現れたのだが、そこでは反対派の指導者たちが祈りの最中であった。彼らはシャブタイ派の入場を拒絶し、シナゴーグから締め出そうとした。ところがツヴィは斧で扉を破壊してシナゴーグ内に乱入すると、力ずくで反対派の祈りを妨害し、彼らを前にして自らの教えを説いたのである。 その説教が終わるとモーセ五書を取り出し、ハラハーによって定められた朗誦法を否定しつつ、独自の流儀による朗誦を披露した。はじめに7人の近親者を、続いて7人の女性を説教壇(ビマー)に上げて担当箇所を朗誦させたのだが、神の名前たる「יהוה」が記されている箇所はすべて文字通りに発音するよう強要した。ツヴィは壇上にて朗誦者それぞれに冠を授け、彼の兄弟エリアフ・ツヴィをアナトリアの王に任命するなど、14人を世界各地の王に任命した。朗誦を終えたツヴィは、角笛の音を真似て鳴らした(角笛を使わず手で鳴らした)。続いて、その場に居合わせたイズミールのラビの名前を挙げ、長時間にわたって呪いはじめた。その筆頭に上げられたのが、『クネセト・ハ=ゲドリーム』の著者で一時期ツヴィの有力な支援者のひとりでもあったラビ・ハイム・ベンベニストであった。そして最後に、トーラーを片手にスペイン歌謡を歌いながらシナゴーグの中で乱舞した。ツヴィはそのスペイン歌謡を、カバラの秘儀が内包されているという理由で非常に愛好していた。 この悪夢のような安息日の後もツヴィの言動は常に議論の対象となっていた。しかし、イズミールのラビの多くはツヴィの支援者に名を連ねるようになっていた。同じころ、ラビ・ハイム・ベンベニストを中心としたイズミールのラビと、ツヴィの排斥を唱える最後の大物であるアロン・ベン・イツハク・ラパパとの間で抗争が起きたのだが、ラパパはイズミールからの追放をツヴィによって宣告されたため、逃亡せざるを得なくなった。一方のベンベニストは、改めて支援者の列に加わるよう命じられている。 ツヴィはテベトの月の10日の断食日の廃止を宣言したり、離婚したふたりの女性と親密な関係を持つなど、ハラハーにおける禁止事項の解禁を自ら実践する形で推し進め、反対者からのより一層の非難を浴びていた。また、たびたび「任命式典」を実施しては、支援者に世界の一部を嗣業として与え、その地域の支配者に定めていた。そのさい、彼らのことを古代パレスティナのユダ王国、あるいはイスラエル王国で王位に就いていた者たちの生まれ変わりであると宣言した。 こうした出来事を経た末に、ついにシャブタイ派の活動は臨界点に達することになる。1665年12月11日(ユダヤ暦5426年テヴェトの月の22日)のこと、支援者に促されたツヴィは、オスマン帝国のスルタン、メフメト4世から王位を剥奪し、彼の代わりに玉座に就くことを目論んでコンスタンティノープルに向けて出発したのである。
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