ダマスコ (時計)
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ダマスコ(英称:Damasko)は、ドイツの時計メーカーである。バイエルン州レーゲンスブルク郡バルビンクに本社を置いている。金属加工から時計製造に進出したという点で稀有な存在である。
- ^ Braun, Peter (2013), Wristwatch Annual. Abbeville Press.
- ^ “Blog - Interview with Damasko Founder - Konrad Damasko - Page & Cooper”. Page & Cooper. 2019年12月11日閲覧。
- ^ http://wornandwound.com/2015/04/29/damasko-da36-review/
- ^ “First Impression: Damasko's Latest Releases - Wound For Life”. Wound For Life. 2019年12月11日閲覧。
- ^ “Damasko: Ein kleine und feine Uhrenmanufaktur strebt nach oben” (German). Mittelbayerische (Regensburg). (2010年2月18日) 2019年12月11日閲覧。
- ^ US 6102563, "A case for wrist watches"
- ^ GQ. “GQ Time Awards 2015: Leserwahl : Kategorie: Einsteigeruhr”. GQ. 2019年12月11日閲覧。
- 1 ダマスコ (時計)とは
- 2 ダマスコ (時計)の概要
ダマスコ
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1840年にダマスコで起きた血の中傷にまつわる事件は、世界中のユダヤ人社会に凄まじい衝撃を与えた。 この時期はムハンマド・アリーによるフランス傀儡政権がダマスコを統治しており、イギリスとオーストリアを後ろ盾にしていたオスマン帝国との交戦中でもあった。血の中傷の背景には、1840年2月5日にトマソという名前のイタリア人修道士と付き人のイスラム教徒が、ユダヤ人街の市場を訪れたのを最後に行方不明になるという事件があった。ダマスコのフランス領事ラティ・メントンは反ユダヤ主義者として知られていたが、彼はこの機会を逃さず、すぐさまユダヤ人が関与しているとして告発した。一方、フランスの首相アドルフ・ティエールは政府主催の代表者会議をダマスコで開催し、エドモンド・ジェームズ・ロスチャイルドとの話し合いの中で次のように述べている。 「もし中世のユダヤ人たちの儀式的殺人への関与が自明であるなら、今日のダマスコの薄汚いユダヤ人が彼らと同じことを行わない理由とは何なのか?」 すると、あるユダヤ人に疑惑の目が向けられたので、さっそく取調べが始まった。厳しい尋問によって自白せざるを得なくなった彼は、苦し紛れにユダヤ人共同体の7人の有力者の名前を挙げた。彼らはすぐさま逮捕され、尋問の挙句に数人が命を落とし、残された者たちは観念して自白した。この事件の首謀者とされたのはハイム・ファルヒという実業家で、ユダヤ人によるパレスチナ開拓や教育をはじめとした、公共施設に多額の献金を行っていた人物である。彼は様々な尋問を受けたものの、幸い嫌疑不十分で釈放された。同じく容疑者としてダマスコの著名なラビ、ヤアコブ・アンテビも拷問を受けたが、後に名誉を回復している。この間、ユダヤ人街から豚のものと見られる骨が発見された。ところが当局によって修道士の骨として公表され、教会内で厳かに埋葬された。これを受けて、ユダヤ人が貯蔵していると噂される血のありかの捜査が始まったが、当局はユダヤ人からの自白を引き出すため、3歳から10歳までの彼らの子供たち60名を誘拐するなど手段を選ばなかった。 ダマスコでの事件は、噂となって世界中のユダヤ人の耳に届いていたものの、当初はわずかな援助しか差し伸べられなかった。ところがこの誘拐事件によって関心が高まり、子供たちの救出へ向けての各方面からの働きかけが増加した。これは多分に民族、及び宗教闘争の要素を孕んでいた。この過程においてモーシェ・ハイム・モンテフィオールの努力が実り、オスマン皇帝アブデュルメジト1世によって、帝国内の事件でないにもかかわらず、血の中傷の流布を厳禁する布告がイスラム教徒に出されたりもした。中でも目立った活動をしたのはドイツの詩人でパリ在住のユダヤ人キリスト教改宗者ハインリヒ・ハイネであった。彼は血の中傷への反論を声高に叫び、その迷信に内包された反ユダヤ主義者のコンセンサスを明らかにした。また、イギリス政府も罪なき被害者の救出活動に全力を注いだ。ダマスコでの血の中傷がユダヤ民族史上の一つのターニングポイントとなったことは間違いないであろう。この事件を通じて、中東のユダヤ人とヨーロッパのユダヤ人との間の溝が埋められたのである。 一方、ロスチャイルド家のメンバーはオーストリア領事の協力を得て、事件の詳細を文書にまとめ、それを新聞を通じて世界中に配布した。すると思惑通り、国際世論から激しい非難の声が上がった。そのため、アドルフ・クレミューを団長とするフランスのユダヤ人使節団がエジプトに赴き、事件の仲裁に乗り出すようムハンマド・アリーに働きかけた。こうして、2ヶ月にも及んだ監禁生活から子供たちが解放されたことにより、事件そのものの一応の決着を見た。また、この事件の責任を問われたダマスコの知事は処刑されている。 1986年、シリアの国防相ムスタファ・タラスは、公表した書籍の中でダマスコでの血の中傷に触れ、儀式用の血の採取を目的としたユダヤ人による修道士の殺害は実際にあったことだと述べている。イスラエルの劇作家アロン・ヒルはこの事件をモチーフにした小説"מות הנזיר"(修道士の死)を2004年に発表した。
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