ダマスクスとの抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 04:33 UTC 版)
ザンギーは一般に十字軍に対する反攻(ジハード)を開始したイスラム教世界の英雄と見られがちだが、実際の彼の生涯は、ほとんどセルジューク朝の分派(分家)政権で本家たる大セルジューク朝と対立していたダマスクスの地方政権、ブーリー朝との争いに費やされた。 1130年、彼はダマスクスのブーリー朝アタベク・ブーリに、連合して十字軍諸侯と戦おうと呼びかけたが、これはザンギーの勢力を高める結果に終わった。彼は到着したブーリの軍を武装解除させるとブーリの息子や弟サウィンジを人質に取り、ハマーの街を奪った。さらにホムスの街も奪おうとしその領主とも結んだが陥落させることができなかったため、ザンギーはブーリの息子やその他の人質を幽閉しているモースルに戻り、ダマスクスから5万ディナールの身代金を受け取って彼らを釈放した。翌1131年、ザンギーは5万ディナールを返す代わりに、カリフのアル・ムスタルシドの元からダマスクスへ逃げた武将ドゥバイスをブーリが差し出すことを要求した。カリフの使者がドゥバイスを引き取りにダマスクスへ現れたとき、ザンギーはドゥバイスを殺した後だった。
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